2020.10.18.主日礼拝
詩編 第118篇22〜25節 、ルカによる福音書 第20章9〜19節

「ぶどう園の主人と農夫」

      イエス・キリストは、きょうの聖書の箇所で譬え話をなさいます。ある人がぶどう園を造りました。彼はそれを農夫たちに貸して長い旅に出ました。ここでの話は、ぶどう園を造ってから5年後に僕を送って収穫の一部を納めさせようとしたというのです。それは収穫の全部ではありません。納めさせるのは収穫のあくまで一部です。年貢のようなものです。この使用人である農夫たちはその僕に酷い仕打ちをしました。彼らはこの僕を袋だたきにして、なにも持たせないで追い返したのです。空手で追い返したのです。そこでぶどう園の主人は、彼の息子なら農夫たちも敬ってくれて、収穫したものを納めてくれるだろうと思い、彼の愛する息子を次に送り込みました。しかし、彼らは、その息子を見て、この息子を殺せばこのぶどう園を自分たちのものにできると考えて、この息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまったというのです。なんとも酷い話です。

主イエスはこの譬え話でなにを民衆に語ろうとなさったのでしょうか。この話は譬え話ですから、何が何に譬えられているかと言いますと、ぶどう園の主人は神様に、農夫はイスラエルの民や祭司長や律法学者たち、僕は預言者たち、愛する息子はイエス・キリストがそれぞれ譬えられています。神様は旧約聖書の歴史において、イスラエルの民を導くため、預言者を何人も送り込みましたが、イスラエルの民はその声に耳を貸さずに、預言者に暴力をふるったり追放したりしました。神様は、イスラエルの民をお救いになるために最終的に愛する御子イエス・キリストをこの世に遣わされましたが、イスラエルの民や祭司長たちは主イエスの教えに耳を貸さず、あろうことか十字架にかけて殺してしまったのです。そのことがこの話で譬えられています。

主人は、農夫たちにそのぶどう園の管理をすっかりまかせています。農夫たちはそのような自由を与えられています。そのように主人によくしてもらっているのに僕に対してまことに酷い仕打ちをいたします。それはそのぶどう園があたかも自分たちのものであるかのような振る舞いです。そのぶどう園は主人から預かっているに過ぎません。ここでわたしたちは所有と言うことを考えさせられます。わたしたちは、自分の持っているものを所有する権利は当然自分のものだと思っています。果たして本当にそうなのでしょうか。それは神様がわたしたちに預けてくださっている、貸し与えてくださっているものなのではないでしょうか。この世のものはすべては神様がお造りになったものであり、神様のものです。わたしたちの自分の身体でさえわたしたちのものではないのです。神様からの預かり物だからこそ身体を大切にしなければならない。健康に留意して飲み過ぎたり、食べ過ぎたりしてはならないのです。この世のすべてのものは神様のものです。わたしたちの人生だって神様のものです。わたしたちの人生は、ぶどう園を神様から貸していただいているようなものなのです。わたしたちの人生の主人は神様なのです。わたしたちの人生の中心は神様なのです。しかし、わたしたちは、わたしのおカネ、わたしの財産、わたしの考え、わたしの信念、わたしの願い・・・すべて「わたし」をくっつけています。すべてわたしが中心になっています。そのことを聖書では「罪」と呼びます。わたしたちの人生において自分が中心になってしまい、神様があるかないかの小さな存在になっていないでしょうか。 17節の後半をご覧ください。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』

これはきょう一緒に読みました詩編118篇からの引用です。ここは旧約聖書において主イエス・キリストの十字架と復活を示す箇所だと言われてきました。家を建築する者が建築に使う石を選んで捨てた石が隅の親石になった。壁が合わさるところの角の上に置かれる目立つ石となったということです。捨てられた石が家の目立つところの石として有効に使われた。それはすなわち主イエス・キリストが十字架につけられ殺されてしまうけれども、主は復活されわたしたちの罪が赦されたということです。さらに続けて主は、ご自分の死には深い意味があり、そこからの復活によって人間の罪が赦され、救いが与えられ、そのことによって父なる神のご栄光があらわされるのだとともおっしゃりたかったのです。

ところで、この箇所を読んでいて不思議に思わされることは、このぶどう園の主人の悠長な態度です。彼は、みたび三人の僕を送り三人とも酷い目に遭わされながらも僕を農夫たちのもとに送り続け、さらには自分の愛する息子まで送ったのです。よく考えてみると気づかされるのは、この主人すなわち神様の忍耐と憐れみの深さということです。そして神様は預けてくださったものについてあれやこれやと命令はなさらない、わたしたちにすべてをゆだねてくださり、神様のものを自由に使わせてくださる。神様はまるで「神がいないかのように」ふるまっておられるのです。わたしたちはそれをいいことにあの農夫たちのようにすべてを神様からお預かりしていることを忘れ、自分が主人になったつもりで生きようとします。神様のものを奪おうとします。神様を邪魔者扱いし、なき者にしようとさえするのです。そういういう意味ではわたしたちもまた主イエスを十字架にかけ続けているのです。しかし、天の父なる神様はわたしたちのそのような罪を赦してくださり、自由をお与えくださっています。わたしたちはそのような神様の愛と憐れみに感謝して、心からの悔い改めをもって神のぶどう園で、愛する兄弟姉妹とともに一生懸命に神と隣人のために働ける者たちとされたいと祈り願うのであります。

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