2020.10.11.主日礼拝
イザヤ書 第61章1〜4節 、ルカによる福音書 第20章1〜8節

「まことの権威」

      主イエス・キリストは、そのご生涯の最後にエルサレムに入られ、真っ先に向かわれたのが神殿でした。47節によりますと主イエスは毎日、神殿で神の教えを説き、福音を告げ知らせておられました。そもそも神殿で神の教えを伝えていたのは、レビ人の一族である祭司だけであったようです。神殿は彼らの管理の下にありました。その神殿で主イエスが神の教えを宣べ伝えていたのは、かなり挑戦的な行為でありました。彼らはそのことに怒りました。そこで彼らは主イエスを罠にはめようとしてひとつの質問をいたします。2節「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」

 そのときもしも主イエスが、自分の権威は神から与えられたものであり、自分はメシア救い主であるなどと答えたならば、すぐさま神を冒涜した者として訴えられることになり、主イエスは死刑に処せられたことでしょう。またもしその質問に答えなければ、民衆はそのことに落胆し、主イエスは民衆の支持を失うということにもなりかねませんでした。しかし、主イエスは、彼らの質問にはお答えにならずに、逆に彼らに質問なさったのです。3節から4節「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』」彼らはこの主イエスの質問に答えることができませんでした。それは5節〜6節にある通りです。

 彼らは結局のところ主イエスからの質問をはぐらかしました。彼らは自分たちの立場を守ることしか考えていなかったのです。彼らは人の評価を気にしていました。人から非難されることを恐れました。彼らは主イエスの質問にまともに答えなかったのです。ごまかしたのです。彼らは逃げの態度をとったのです。

 ところで、ここで言われている「権威」とは何でしょうか。権威とは、人を支配する力、権限のことをいいます。祭司長たちは自分たちこそが権威ある者、特に宗教的な権威を持つ者だと言いたかったのです。主イエスに対して、あなたには権威などはまったくない、その権威を授けるのはわたしたちであり、あなたは勝手に何の根拠もなく勝手な振る舞いをしているだけだと言いたかったのです。

 わたしたちは「人からの権威」については慎重に見極めるべきです。「神からの権威」をお持ちの御方にこそ信頼を置くべきなのです。イエスという御方がどのような御方なのか、果たして歴史上の立派な人のひとりに過ぎないのかどうかということをわたしたちはしっかりと考えることが必要です。

 わたしたちもイエスという御方がどのように権威ある御方であると考えているのかということを問われています。主イエスが権威あるお方であり、神からの権威を授けられており、その語られる福音が権威あるもの、力あるものかどうかといういうことは、わたしたちがそのことを信じるかどうかということにかかっています。しかし、信じると言っても「盲信」ではいけません。「いわしの頭も信心から」という諺があります。いわしの頭のようなものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるようになるというたとえです。考えもせずにやみくもに信じるということは信仰とは呼びません。その対象が信ずべき御方かどうかわたしたちはしっかりと御言葉に聴いて考えていかなければなりません。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙のなかで「信仰は御言葉に聴くことによって与えられる」と述べています。

 祭司長たちは、公的な機関によってその権威を認められていました。自分自身も権威ある者と自認していました。一方、主イエスは目に見えるこの世的な権威はなにもお持ちではありませんでしたが、しかし、主はまことの権威をお持ちでした。まことの権威をお持ちであったが故に主は祭司長たちや律法学者たちの権威をおびやかして、彼らの恨みを買い、遂には十字架で殺されてしまったのです。まことの権威をお持ちであるお方が理不尽にも殺されてしまいました。しかし、主は三日目によみがえられ、死の力に勝利されました。このことによって罪と死の力が滅ぼされ、わたしたちの深い罪が赦され、わたしたちに復活の命と永遠の命に生きる救いの道が備えられたのです。

 主イエスの権威というときどうしてもそこに「信じる」ということが必要になってきます。信じるためには先ほども申しましたように、御言葉に聴くことが大切です。御言葉に聴くことによって信仰が起こされるのです。しかし、信仰をいただくことができても、心の中でとどめておくだけでは不十分です。実際に御言葉を実行すること、主イエスに従うことが必要です。わたしたちはまことの権威を持つ御方の御言葉を信じ、神の言葉を実行していくときに主がわたしたちと共にいてくださるということがわかってきます。そのことによってわたしたちに困難な出来事があっても乗り越える力が与えられます。しかし、わたしたちは本当にそのようにできるのだろうかという疑問もわいてきます。 心配は不要です。神の言葉には力があります。創世記にもありますように神は言葉によってこの世のあらゆるものを造られたのです。創造なさったのです。「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」(創世記1章3節)。神の言葉は、無から有を生み出す力があり、わたしたちを変革する力もあります。主を信じ、御言葉を信じていくとき、わたしたちは、御言葉を実行できる者、まことの権威をお持ちであるお方にお従いすることができる者へと変えられていきます。そして同時にわたしたちは神の福音を、神の救いの喜ばしい便りをひとりでも多くのひとたちに告げ知らせる器として生きる者へと変えられていくのです。

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