2020.10.4.主日礼拝
イザヤ書 第56章1〜8節 、ルカによる福音書 第19章41〜48節

「主がお入り用なのです」

      きょうのところでは、主イエスが珍しく感情を露わになさっています。この箇所はふたつの話が盛り込まれております。この二つの話の内、後の方の「宮清め」と呼ばれている話(45節以下)から先に見ていきたいと思います。

 主イエスはなぜそんなことをなさったのでしょうか。ルカは主イエスのお言葉をこのように記しています。46節「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」。ここで主イエスが「こう書いてある」と引用しておられる、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書56章7節の終わりのところです。そこには「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。「わたし」というのは主なる神様です。主なる神様の家、つまり神殿は「祈りの家」と呼ばれ、人々が神様に祈るための場でなければならない。それなのに、今やそれが商売のために利用され、「礼拝ビジネス」の場となってしまっている、主イエスはそのことに激しく怒ってあのような乱暴な振る舞いに及んだのです。

 このことを確認した上で、主イエスがエルサレムを見て泣いたという41節以下に戻りたいと思います。主イエスはなぜ涙を流されたのでしょうか。その思いは42節から44節で語られています。

 主イエスは、エルサレムの人々が「平和への道」をわきまえていないことを嘆いておられます。そのために彼らは平和に至ることができず、やがて恐しい破滅に襲われるのです。攻め寄せる敵に包囲され、ついに陥落して徹底的に破壊され、多くの人々の命が奪われてしまうのです。このことは、紀元70年に実現してまいました。ローマ帝国に対する反乱を起こしたユダヤ人たちがローマ軍に打ち破られ、エルサレムが籠城戦のすえ陥落し、徹底的に破壊され、多くの人々が殺されてしまったのです。主イエスはそのことを見越して、そのようなエルサレムの人々の運命を覚えて泣かれたのです。けれども主イエスのこの涙、嘆きは、エルサレムの人々にやがて訪れるこの過酷な悲劇を悲しんでいるというだけではありません。主イエスはそのようなことが起る根本的な原因を見つめて泣いておられるのです。それは、彼らが平和への道を知らない、ということであり、さらにその根本にあるのは、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったから」ということです。このことと、そこから生じる結果を見つめつつ、主イエスは泣かれたのです。

 それでは「神の訪れてくださる時をわきまえない」とはどういうことでしょうか。神様が訪れて来て下さっているのにそのことに気付かず、ちゃんとお迎えしないということだ、ととりあえず言えるでしょう。だとしたらそれは、主の名によって来られた方、まことの王である主イエスの到来、訪れを、弟子たちがしたように賛美の歌を歌って歓迎しなかったエルサレムの人々の姿だと言えるかもしれません。神様の独り子であるまことの王が、王の都であるエルサレムに来たのに、そのことを全くわきまえておらず、迎えようとしなかった人々は、平和への道を知らず、その結果滅びが彼らに臨む、そのことを主は嘆いておられる、ルカの文脈からすればそのようにここを読むこともできるかもしれません。

 確かに主イエスがエルサレムに来られたことももちろん神の決定的な訪れです。しかし神の訪れはその時にだけ起ったのではありません。主イエス・キリストが人間としてこの世に生まれて下さり、神の国の福音を宣べ伝えて下さり、そして十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がその主イエスを復活させて下さった。そして天に昇られた主イエスのもとから聖霊が遣わされて地上に教会が誕生し、私たちがそこへと招かれている。主イエス・キリストによって実現したこれらの救いの御業の全体において、主なる神様は私たちを訪れて下さり、私たちに働きかけ、み言葉を語りかけておられるのです。神様は独り子イエス・キリストによって私たちを訪れ、働きかけ、語りかけ、私たちと正面から向き合う交わりを結ぼうとしておられるのです。この神の訪れをわきまえ、それをしっかりと受け止めて応答し、神様と向き合っていくことこそが、祈ることの本質です。この祈りに生きることが信仰です。その祈りの家として教会が与えられています。それは建物のことではなくて、神様によって呼び集められ、神様を礼拝する者たちの群れとしての教会です。その礼拝において私たちは、神様からの語りかけを聞き、その働きかけに応え、つまり神の訪れをわきまえ、それに応答して神様との交わりに生きていくのです。その礼拝が一週間の生活の中心に据えられることによって、私たちの日々の生活、日常の歩みの全てが、神様と共に生きる歩み、祈りに支えられた生活になるのです。

 しかし、神様が私たちを訪れて下さり、私たちと正面から向き合う交わりを結んで下さることをわきまえずに生きるところでは、私たちが生まれつき持っている様々な思い、願い、欲望がどこまでもふくれあがっていきます。そして人と人とのその欲望のぶつかり合いである争いや戦いが必ず生じていくのです。本当の平和への道は、私たちの思い、願い、欲望が、神様の訪れによって、そのみ言葉とみ業とによって打ち砕かれ、私たちがその神様のみ心に従う者となる所にこそ開かれていくのです。

 主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪を赦して下さいました。毎週の礼拝において、主イエス・キリストはこの赦しの恵みをもって私たちを訪れて下さっています。私たちは、この訪れをわきまえて主イエスと向き合い、心から祈ることによって、真実の平和への道を示され、その道をしっかりと歩んでいきたいのです。

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