2020.9.27.主日礼拝
ゼカリヤ書 第9章9〜10節 、ルカによる福音書 第19章28〜40節

「主がお入り用なのです」

      きょうの聖書箇所の初めに、エルサレムに上る一行の先頭に主イエスが立っておられる姿が描かれています。「先に立って」ということはその後に弟子たちが従っているということです。しかし弟子たちは主イエスが何のためにエルサレムへと向かっておられるのか、その使命を理解してはいません。そのことは、18章31節以下で主イエスがご自分のエルサレムにおける受難を三度目に予告なさった時にも、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」と言われている通りです。よく分かってはいないのだけれども、とにかく主イエスに従って来たのです。この弟子たちの姿は私たち信仰者の姿と重なります。主イエスに従っていくのが信仰者の歩みですが、それはいろいろなことを全て分かって、理解して従っているわけではありません。主イエスのことも、主イエスを遣わした父なる神様のことも、分かっていないことが沢山あるのです。分かっていないから、弟子たちもそうだったように私たちも、いろいろと失敗をします。しかしそれでも、先に立って進む主イエスに従っていることが大切です。そこに、周りで見ているだけの群衆たちと弟子たちとの、つまり信仰者とそうでない人の決定的な違いがあるのです。そして信仰者は、主イエスに従っていくことの中で、いろいろなことを体験していきます。その体験の中で、主イエスの御心を、神様の救いの恵みを次第に教えられていくのです。きょうの箇所もそういう話になっていると言うことができます。

 29節には、主イエスの一行が「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいた」とあります。エルサレムの東にいわゆる「オリーブ山」があり、エリコからエルサレムへ上るにはこの山を越えるのです。この山に登っていくところに「ベトファゲとベタニア」という村がありました。

30節の「向こうの村」は、マタイによる福音書を参考にするならベトファゲのことです。主イエスはこの村へと二人の弟子を使いに出し、一頭の子ろばを調達させました。そしてその子ろばに乗ってオリーブ山を下り、エルサレムに入られたのです。主イエスは二人を使いに出すにあたって、「向こうの村に入るとまだ誰も乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかるから、それをほどいて引いて来なさい」とお命じになり、さらに、もし誰かが「なぜほどくのか」と尋ねるなら「主がお入り用なのです」と言いなさいとおっしゃいました。そして二人が行ってみると主イエスがおっしゃった通りのことが起りました。33、34節に「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言った。二人は、『主がお入り用なのです』と言った」とあります。これはなんでもない会話のようですが、ここは原文を読むと大変面白いことになっています。「持ち主たち」と訳されている言葉と「主」という言葉は、複数形と単数形の違いはあるものの同じ言葉なのです。つまり「持ち主たち」とはそのろばの「主人たち」ということです。また、弟子たちの「主がお入り用なのです」は、「主イエスがお入り用なのです」と言っているのではなくて、直訳すると、「このろばの主人がこのろばを必要としておられるのです」となります。つまりこの会話は、少し意味を押し広げて言えば、子ろばの持ち主たちが「このろばの主人は我々ではないか。なぜ我々のろばをほどくのか」と問うたのに対して弟子たちが、「このろばのまことの、ただ一人の主人がこのろばを必要としておられるのです」と答えたということになるのです。これは大変深い意味のある問答です。この子ろばの本当の主人は誰か、ということが問題となっているのです。持ち主たちは自分たちこそ主人だと思っています。しかしこのろばの本当の主人、所有者、王は彼らではなくて主イエスなのです。このろばの子は、自分の本当の主人、王である主イエスに召し出されて、そのご用のために用いられたのです。そして弟子たちは、このろばの本当の主人は主イエスであり、その主イエスが彼を用いようとしておられることを告げる役割を与えられたのです。彼らが告げた言葉は、彼ら自身が考えたものではありません。主イエスに「このように答えなさい」と言われた通りに答えたのです。つまり主イエスに従ったのです。主イエスに従い、言われた通りにした結果、彼らはこのような重要な宣言をする者として用いられたのです。

 この経験を通して弟子たちは、自分たちの姿とこの子ろばとが重なり合うことを感じ取ったのではないでしょうか。そしてそれは私たちにも言えることなのです。私たちはもともと、自分の人生の本当の主人、所有者、王を知らずに生きています。だから、自分の人生の主人は自分だ、と虚勢をはったり、つっぱったりしながら、しかし事実上は誰か他の人に支配されていたり、ある組織の支配下に置かれていたりしているのが生まれつきの私たちの姿です。しかしそのように生きている私たちのもとに、ある日ある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです」、つまり「あなたの主であるイエス・キリストがあなたを必要としておられ、あなたを用いようとしておられます」と告げるのです。その人を通して主イエスご自身が私たちと出会い、「あなたの人生の本当の主人、所有者、王は私だ」と語りかけ、私たちをお招きになるのです。この招きに応えて主イエスに従っていくことが、信仰者となるということです。あの物乞いをしていた目の見えなかった人も、徴税人だったザアカイも、そのように新しく歩み出したのです。

 そのようにして主イエスに従う信仰者の群れである教会の使命は、まことの主、まことの王を知らない世の人々、群衆の中で、主イエス・キリストによる救いの恵みを与えて下さった神をほめたたえる賛美の声を高らかにあげることであり、「主がお入り用なのです」というみ言葉によって召され、招かれた者として私たちも人々に、神の福音を告げ知らせていくことなのです。そのことのために喜びをもって奉仕していくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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