2020.9.20.主日礼拝
イザヤ書 第52章7〜10節、ルカによる福音書 第19章11〜27節

「良いしもべ」

      きょうの聖書の箇所には、ひとつのたとえ話が出てまいります。このたとえ話の最初には「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」とあります。王の位を受けようとしているある立派な家柄の人、それは人々が王として即位することを期待している主イエスのことを指しています。そういう王を題材としたたとえ話を語ることによって主イエスが人々に示そうとしておられるのは、私は王となるためにまず、遠い国へ旅立たなければならないのだ、ということです。遠い国に旅立った者は、しばらくこの地からはいなくなります。私はこれからエルサレムに登るが、そこから遠い国へ旅立ち、あなたがたの間からいなくなるのだ、と主イエスは語っておられるのです。エルサレムから旅立っていなくなる、それは主イエスがエルサレムにおける十字架の死と復活を経て天に昇り、父なる神様のみもとに帰られるということです。それによって、主イエスはエルサレムから、いやこの地上からいなくなるのです。「遠い国へ旅立つ」はそのことを意味しています。しかし、主イエスがいなくなるのは、王の位を受けて再び帰って来るためであり、必ず戻って来るのです。それは、世の終わりに主イエスがもう一度来られる、いわゆる主の再臨を意味しています。

 13節に「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」とあります。王の位を受けるために旅立とうとしている主人が、十人の僕たちに、自分が旅に出て不在である間になすべきことを命じたのです。その命令を受けた僕たちがどうしたか、がこのたとえ話の中心的内容です。

 主人が王となって帰って来るのを待っている僕たち、それが、主イエス・キリストを信じる信仰者の姿です。私たちはいままさに、主イエスが十字架と復活と昇天によって天の父のもとに帰られてから、その主イエスが世の終わりにもう一度来られる再臨までの間の、主イエスの不在の時を生きています。それゆえに私たちは、いまこの地上の人生において、この目で見たり手で触れるような仕方で主イエスと出会うことはできないのです。しかしその中で信仰者は、主イエスが王として帰って来られることを信じて、主イエスの僕として、主イエスに命じられたことを行いつつ生きています。主人が旅に出て不在の間、主人の言い付けを守って働いている僕、それがこの世を生きる信仰者の姿なのです。いまは目に見えない主イエスがもう一度来て下さり、そのご支配を現わして下さり、それによってこの世が終わり、神の国が完成することを信じて、その時を待ち望みつつ、主イエスの僕として生きていく、それがこの世を生きる私たちキリスト信者の信仰なのです。

 遠い国へ旅立つに際して主人は、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」と13節にあります。つまり一人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じたのです。この主人の命令に僕たちがどう応えたかがこのたとえ話の中心となるわけですが、それでは、その私たち一人一人に平等に与えられている1ムナとは何を意味しているのでしょうか。これは私たちそれぞれの能力や才能ではありません。人によって様々に違っているものではないのです。主の僕として生きる信仰者の一人一人に、皆同じく与えられているもの、それは「信仰」です。それ以外の点では様々に違っている私たち一人一人に、等しく与えられているのは、主イエスを信じる信仰なのです。その信仰の内容とは、主イエスこそ救い主であられ、まことの王として私たちを、そしてこの世界を支配なさる方である、と信じることです。その主イエスの王としてのご支配はいま、この世界に、誰の目にも明らかな仕方では確立していないけれども、しかし主イエスは確かにまことの王として戻って来られ、その主イエスの再臨によってこの世は終わり、神の国が完成するのです。そのことを信じて、再び来られる主イエスを待ちつつ、主の僕として、主の御心を行なっていく、それが私たち一人一人に与えられている信仰であり、信仰に基づく生活なのです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、誰もが皆、この信仰を与えられています。主イエスがまことの王として再び来て下さることによって神の国が現れるという将来の救いの完成を信じる信仰、それが私たち一人一人に預けられている1ムナなのです。

 主イエスの不在の時であるこの世において、この1ムナをどう用いていくか、が私たちに問われています。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神様の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられます。それが1ムナを用いて10ムナを儲けた人の姿が示していることです。

 先ほども申しましたように、私たちはいま、主イエスの不在の時を生きています。復活していまも生きておられる主イエスも、またその主イエスによる神様の恵みのご支配も、この世の現実においては目に見える仕方ではっきりとは現れてはおりません。むしろ新型コロナウイルスによる疫病や災害こそが目に見える現実です。しかし、私たちはその中で、主イエスの十字架の死と復活によって私たちの罪の赦しと新しい命の約束がすでに与えられており、神様はその約束を主イエスの再臨において必ず果たし、神様による救いの完成をもたらして下さると信じる信仰、すなわち私たちに預けられている1ムナの信仰を大切にして、「主の再び来りたまふを待ち望」みつつ生きていきたいのです。それによってこそ、この信仰は私たちのこの人生において五倍十倍の実りを生むのです。

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