2020.8.30.主日礼拝
詩編 第71篇1〜24節、ルカによる福音書 第18章35〜43節

「信仰があなたを救った」

       きょうの聖書箇所の冒頭に、主イエスがエリコの町に入ろうとするとそこに、「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」とあります。この人は町の門を出たところに座って物乞いをしていたのです。目が見えない彼は、物乞いをして人々の施しを受けることによってしか生きることができなかったのです。それでこの日もいつものように道端に座って物乞いをしていたわけですが、きょうはやけに多くの人々が群れをなしてエリコの町に入って行こうとしている、ということを彼の耳は敏感に感じ取りました。主イエスと弟子たちの一行がそこを通ろうとしていたのですが、その周囲には噂を聞きつけた多くの群衆が群がっていたのです。彼が、「これは、いったい何事ですか」と人々に尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」とのことです。それを聞いたとたん彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。彼はすでに、ガリラヤのナザレ出身のイエスという人が「神の国はあなたがたの間に来ている」と語りつつ旅をしており、様々な病気を癒し、悪霊を追い出している、ということを聞いており、その主イエスにお会いしたいと願っていたのです。

 そのように大声で叫び出した彼を「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」と39節にあります。口語訳聖書では「先頭に立つ人々」と訳されています。主イエスの一行の先頭に立っている人々、それは主イエスの弟子たちだったのでしょう。苦しみの中で主イエスの憐れみをひたすら求める一人の人の切実な叫びを、こともあろうに弟子たちが黙らせようとした、ということをルカは語っているように思われます。

 しかしこの盲人の物乞いは、叱りつけて黙らせようとする、おそらくは弟子たちの妨害をものともせず、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。彼は一度や二度叫んであきらめてしまったのでなく、主イエスに気付いてもらえるまで、ひたすら叫び続けたのです。主イエスは彼のこの叫びを聞き取って下さいました。40節に「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあります。主イエスは立ち止まり、ご自分のもとに彼を呼んで下さったのです。

 主の招きに応えて、み前に近づいた彼に主イエスは「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。彼はこの問いに答えて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。この願いを受けて主イエスは彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。すると彼はたちまち見えるようになったのです。この癒しは、主イエスの神の子としての力によってなされたことです。しかし同時に主はここで私たちの目をこの人の信仰に向けさせようとしておられます。「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さったのです。それはこの盲人が自分の信仰の力でこのような癒しを獲得したということではありません。彼は、どうしようもない惨めさの中で、主イエスこそダビデの子、救い主であられると信じて、その憐れみを切に求め、それに寄りすがっていったのです。主イエスはそれを「あなたの信仰」と呼んで下さり、あなたのその信仰があなたを救った、と宣言して下さって、彼の目を開いて下さったのです。

 43節に「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。目が見えないために物乞いをして生きて来なければならなかった人が、見えるようになったのです。「イエス様、ありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、神をほめたたえながら、見たいと思っていたあれこれのものを見に行った、あの人この人に会いに行った、そして新しい仕事を捜しに行った、となるのが自然というか当然のことだと私たちは思います。しかし彼は、「神をほめたたえながら、イエスに従った」のです。つまり主イエスの弟子になったのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ時から彼が主イエスの弟子になりたいと思っていたと考える必要はないでしょう。しかし彼は、惨めさの中から主イエスに救いを求め、主イエスの問いかけに導かれて自分の本当の願いを語ることができ、そして「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉をいただいて目を開かれたことによって、別の意味でも目を開かれたのです。彼は、自分の根本的な願いは目が見えるようになることだと今の今まで思っていました。それこそが自分の惨めさの根源だと思っていたのです。しかしいま、主イエスによって目を開かれたことによって、目が見えないことよりももっと深い問題があったことに、目が見えるようになること以上に自分が本当に願い求めていたこと、自分に本当に必要なことがあったことに、彼は気付かされたのです。その問題とは、自分が本当に信頼して人生を委ね、従っていくことのできる御方と出会うことができていないということであり、本当に願い求めていたこと、本当に必要なこととは、人生を委ねて従っていくに足る方と出会い、その弟子となることです。彼はいまやその出会いを与えられ、主イエスの弟子となり、従って行ったのです。その主イエスはいま、エルサレムへと、つまり十字架の苦しみと死、そして復活へと向かって歩んでおられます。それは彼も含めた私たち全ての人の罪を赦し、永遠の命を与えるための歩みです。自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さる主イエス・キリストに従っていくという新しい人生を、彼は与えられたのです。それこそが、彼が本当の意味で目が見えるようになったということなのです。  主イエスに招かれ、み前に進み出る礼拝に集っている私たちは、「私たちの閉ざされた目を開き、この私のために十字架の苦しみと死への道を歩まれた主のお姿を見つめさせて下さい。そして主に人生を委ね、従っていく弟子とさせて下さい」と祈れる者になれるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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