2020.8.23.主日礼拝
詩編 第38篇1〜23節、ルカによる福音書 第18章31〜34節

「人の子について預言者が書いたこと」

        主イエスはきょうのところの冒頭で「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」とおっしゃいました。主イエスはエルサレムへと向かう旅路を歩んでおられますが、それは、エルサレムにおいて、異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれて殺されるため、そして三日目に復活するためでした。そのことを主イエスは弟子たちに前もってはっきりとお告げになったのです。主イエスがご自分の受難を予告なさったのはこれで三度目です。

 主イエスがこのように三度ご自分の受難を予告なさったことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して語っていますが、三つの福音書におけるこの第三の受難予告の言葉を比べてみますといくつかの違いがあります。そのいくつかの違いの中の一つの言葉に注目したいと思います。それは32節の、「乱暴な仕打ちを受け」という言葉です。これは、マタイにもマルコにもない、ルカのみが語っている言葉なのです。この「乱暴な仕打ちを受け」は、口語訳聖書では「はずかしめを受け」と訳されていました。「乱暴な仕打ち」というと肉体的暴力という感じですが、「はずかしめ」というともっと精神的な事柄という感じです。これはその両方の意味を含んだ言葉です。

 この言葉のもともとの意味は「傲慢さ」です。つまりこれは、「傲慢さによる苦しみを受けた」ということです。肉体的な乱暴も、精神的な侮辱も、人間の傲慢さによって起るということです。主イエスが、異邦人に、つまり神様を知らない人々に引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺された、それは、肉体的にも精神的にも、人間の傲慢さによる苦しみをお受けになったということだ、ということをルカは見つめているのです。

 主イエスを苦しめ、死に追いやったのは人間の傲慢さです。そしてそれは、人間の数々の罪の中で、特に傲慢さの罪が主イエスを苦しめ、死なせたのだということではありません。人間の罪の本質がこの傲慢さなのです。傲慢さは様々な罪の内の一つではなくて、人間の罪の根本、根源なのです。聖書で教えている救いとは、この罪からの救い、人間をとらえて離さない「傲慢さ」からの解放なのです。

 それでは主イエス・キリストはどのようにしてこの神様の救いの御業を成し遂げて下さるのでしょうか。それは、私たち人間のどうしようもない傲慢さの罪による苦しみを引き受け、肉体的にも精神的にも「乱暴な仕打ちを受け」て、人間の傲慢さの犠牲となって死んで下さることによってです。そのことが、本日のこの主イエスご自身による受難の予告に語られています。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。主イエスはこのようにして、私たちの傲慢さがもたらす、肉体的精神的なありとあらゆる苦しみをご自分の身に負って下さり、それによって死んで下さったのです。つまり私たちの傲慢さが、神様の独り子である主イエスを殺したのです。

 しかしそれに続いて「そして、人の子は三日目に復活する」ということもここに予告されています。私たちの傲慢さの犠牲となって死んで下さった主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。それは、神様の恵みが私たちの傲慢さの罪に打ち勝ったということです。人間の傲慢さがもたらした死が、神様の恵みによって打ち破られ、新しい命、永遠の命が切り開かれたのです。神様が独り子主イエスの復活によって、私たちの傲慢さの罪に打ち勝って切り開いて下さったこの新しい命にあずかることによってこそ、私たちは神の国、神様の救いにあずかることができます。

 31節の後半には「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とあります。それはつまり主イエスがここで語られたご自身の受難と復活による救いは、預言者たちが書いたこと、つまり旧約聖書に語られていることの実現だ、ということです。預言者たちがすでにこのことを書き記していた、それはさらに言えば、主イエスの受難と復活は父なる神様の御心によることだ、ということです。どうしようもなく傲慢さの罪に捕えられている私たちを救うために、主なる神様は、ご自分の独り子をこの世に遣わし、その独り子が私たちの傲慢さの犠牲となって死んで下さることによって、そしてその独り子を死者の中から復活させて下さることによって、私たちの罪を赦し、わたしたちを新しくして、神様の祝福のもとに生きることのできる者として下さる、そのような救いの御業をなさることを決意して下さり、そのご計画を預言者たちによって書き記させて下さったのです。その神様のご意志、ご計画を実現するために、主イエスは今、エルサレムへと上って行こうとしておられるのです。

 しかし34節には、「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とあります。

この時この御言葉が分からなかった弟子たちも、後に、復活なさった主イエスと出会い、そして聖霊のお働きを受けることによって、心を開かれて、主イエスの十字架と復活による救いを告げる御言葉を信じて受け入れ、その御言葉を宣べ伝える者となりました。いまは隠されている神の国の真理が、聖霊の働きによって示され、分かり、その真理によって生きる者となることを弟子たちは体験したのです。

 主イエスの苦しみと死が私たちの傲慢さの罪によるものであることや、そして主イエスの十字架と復活によって神様が私たちの傲慢さの罪を赦して、新しい命を与えようとして下さっていることを頭で理解するだけではわたしたちは救いにはあずかれません。毎週の礼拝において、復活して今も生きておられる主イエスが出会って下さり、神様が聖霊のお働きによってこの救いの恵みを示し、わたしたちを新しく造り変えてくださ下さることによって、救いにあずかることができるのです。そのことを信じて希望をもって歩んでまいりましょう。

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