2020.8.2.主日礼拝
詩編 第8篇1〜10節、ルカによる福音書 第18章15〜17節

「子供のように神の国を受け入れよ」

        きょうの聖書のところでは、「子供」が登場いたします。子供の親たちが「イエスに触れていただくために」自分たちの乳飲み子をも連れて来たのです。触れていただく、というのは、手を置いて祝福してもらう、ということです。病人を癒したり悪霊を追い出す力をお持ちになっている主イエスに祝福してもらって、子供たちの健やかな成長を願うために彼らは乳飲み子を含む子どもたちを連れて来たのです。しかし主イエスの弟子たちはこの親たちを叱りました。当時子供という存在は、律法を理解することもできず、価値のない者と見なされておりました。そのような者たちが主のもとに来ることは主のお仕事の邪魔になると思って弟子たちは親たちを叱ったのでしょう。

 ところが主イエスの思いは弟子たちとはまったく違っていました。主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。

 私たちがここから読み取るべきことは、主イエスは子どもが好きだった、子どもに優しかった、ということではありません。その次の「神の国はこのような者たちのものである」という御言葉が、この箇所の中心テーマへと私たちを一挙に引き込みます。きょうの箇所のテーマは、子供たちに対する主イエスの愛ということではなくて、神の国は誰のものか、ということなのです。そのことは17節からも分かります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。ここでも主イエスは、神の国に入ることができる人は誰か、を語っておられるのです。神の国とは、神様のご支配という意味です。神様のご支配が確立すること、それが「神の国が来る」ということであり、その時、神様を信じ従う神の民の救いが完成するのです。「神の国はこのような者たちのものである」というのは、この神様による救いがこのような者たちにこそ与えられるということであり、「このような人でなければ神の国に入ることはできない」というのは、このような人でなければ神様の救いにあずかることができない、ということです。神の国、神様による救いにあずかることができるのはどのような人か、ということを、主イエスはここで語っておられるのです。きょうの箇所は、この神の国はどのような者のものであり、どのような人こそがそこに入ることができるのか、を語っているのです。

 「神の国はこのような者たちのものである」。「このような者たち」とは、子供たちのことです。子供たちこそ、神の国に入るのにふさわしい者だと主イエスはおっしゃったのです。それはもちろん、子供しか入れない、大人はだめ、ということではありません。「子供のような」者こそがそれにふさわしいということです。では、「子供のように」とはどういうことなのでしょうか。「子供のように素直で純真な、無垢で汚れを知らない人」ということでしょうか。そうではありません。子供といえども罪にまみれているのです。学校でいじめだってするし、ひどいこともします。ですから主イエスがここで「子供のような者」と言っておられるのは、「子供のように罪のない純真な者」ということではありません。17節の「子供のように神の国を受け入れる人」という言葉こそがその意味を示しています。

 子供は、親や教師の言葉を信頼して受け入れる、そういう素朴な信頼に生きているのです。子どもは自分の力では生きていけない弱い存在です。親や学校の先生の庇護の下にあり、親や先生を信頼して生きています。「子供のように神の国を受け入れる」とは、そのような素朴な信頼をもって、主イエスによって既に実現している神様の恵みのご支配、救いの御業を信じて受け入れるということです。主イエスによって神の国が実現しているという福音の言葉を信じて受け入れる者こそが、神の国の恵みにあずかることができるし、その完成を待ち望みつつ生きることができるのです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という御言葉はそのように理解することができるでしょう。

 主イエスは乳飲み子を呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものである」と言ってくださいました。それは私たち一人一人を、神様の恵みのご支配のもとで生きることへと招いてくださっている恵みの御言葉です。この招きの中で私たちは、子供のように神の国を受け入れる者とされるのです。

 先々週の礼拝において読んだ18章9節以下のファリサイ派の人と徴税人のたとえも、それと同じことを語っていたと言うことができるでしょう。あのたとえにおいては、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったあの徴税人こそ、神様の招きによって神の国に入れられた人です。彼は、人々の目から見たらとうてい赦されることがない罪をかかえていながら、神様に赦しを願い求めたのです。神様はこの祈りに応えて、彼を義としてくださいました。それは、神様がもともと恵みの御心によって罪人である彼を招き、呼び寄せてくださっているから実現したことです。「子供のように神の国を受け入れる人」というのは、あの徴税人のように、深い罪をかかえ、とうてい神様の御前に出ることなどできない者でありながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈る人なのです。そのように心から祈るということは、その罪の赦しを信じているということです。神の国、神様のご支配とは、この罪の赦しの恵みによるご支配です。主はわたしたちの罪を赦してくださるためにわたしたちのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。  その神の国が、イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって既にもたらされているのです。私たちは、神様の独り子イエス・キリストの苦しみと十字架の死によってもたらされ、目に見えない仕方で既に実現している神の国、神様の恵みのご支配を信じ受け入れることができる者となれるように心から願い求めつつ歩みたいのです。                                  閉じる