2020.7.26.主日礼拝
詩編 第51篇1〜21節、ルカによる福音書 第18章9〜14節

「こんな罪人のわたしを」

        わたしたちは礼拝におきましてルカによる福音書を読み進めておりますが、先週の箇所に続いてきょうの9節以下でも、主イエスは一つのたとえをお語りになりました。

 主が語られたたとえの内容を見ていきたいと思います。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」という設定です。「祈るために」というところが大事です。神様のみ前に出て、神様と相対し、神様に語りかける、それが祈ることです。そのために最もふさわしい場所は、神様がそこにおられると考えられていた神殿でした。彼らは二人共、神様の御前に進み出るために神殿にやって来たのです。その二人が、ファリサイ派の人と徴税人だったというのは、全く対照的な二人ということです。ファリサイ派は、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しい生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に認めていた人々です。それに対して徴税人はその正反対、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金を徴収し、そのうわまえをピンハネしたりして、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、罪人の代表だと思われていたのです。  この対照的な二人の祈りがまたまことに対照的でした。ファリサイ派の人はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。彼は神様に感謝の祈りをささげています。何を感謝しているのかというと、「ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと」です。このように彼は他の人々が真似できないようなすばらしい信仰的行いをしている、そのことを祈りにおいて神様に述べているのです。

 他方、徴税人の祈りは一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」でした。しかも彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。彼は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。

 この対照的な二人の対照的な祈りの言葉を語った上で主イエスは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。「義とする」ことができるのは神様のみです。あの徴税人は神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。つまり彼の祈りは聞き届けられたのです。

 それは何故なのでしょうか。そのことを考えるために、彼ら二人の祈りの言葉にもう一度目を向けたいと思います。ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その彼が見つめているのは「ほかの人たち」の姿です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちが世の中には沢山いる、そういう人々のことを彼は見つめています。そしていまこの祈りの場においては、あそこにとんでもない罪人である徴税人がいる、神殿に祈りに来る資格などないはずの者がずうずうしくやって来ている、と彼の目は徴税人に向けられています。

 彼の感謝は、それらの他の人々と自分とを見比べることによる感謝です。そして彼がこの祈りにおいて見つめているもう一つのもの、それは自分自身です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神に仕え、どれだけ献金をしているか、それを彼は見つめています。そのように彼の心の目は、他の人と自分自身にばかり向けられていて、神様の方に向けられていないのです。11節に彼が「心の中でこのように祈った」とあります。ここは直訳すると「自分自身に向かって祈った」となるのです。自分自身に向かって語る言葉、それは「独り言」です。彼の祈りの言葉は独り言になっている、それは、祈る相手である神様がしっかりと見つめられていないからです。そこに、彼の祈りの根本的な問題がありました。いや、それはそもそも祈りになっていなかったのです。

 それに対して徴税人の祈りは、神様に、神様のみに向けられています。彼が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてどうだということではありません。私はあそこで祈っているファリサイ派の人のような立派な信仰生活は全然できません、罪を犯してばかりです、私はだめです、などと言っているのではないのです。彼の目には、周囲の人間は全く入っておらず、ただひたすら神様のみを見つめ、神様による罪の赦しを願い求めて祈っているのです。それはまさに神様に向けられた祈りです。神様は彼のその祈りに応えてくださり、彼を義としてくださったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、つまり神様が彼を高くしてくださったのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからではありません。彼が神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えてくださったのです。

 私たちが人のことばかりを見つめ、人と比べ合ってばかりいる目を、神様の方に向け、神様を恐れをもって信じつつそのみ前に立つならば、私たちはこの徴税人のように自分を低くする者となります。当然そうならざるをえません。神様のみ前に堂々と立つことなどできず、遠くから、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る者となるのです。その時私たちは本当に祈る者となります。神様はその祈りをしっかりと受け止めて下さり、私たちを義として下さるのです。そのために、神様の独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったのです。そのことを信じることによって、罪人である私たちが赦され、義とされて、キリストによって既に到来している神の国にあずかる者となり、またその完成を待ち望む者となるのです。

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