2020.7.19.主日礼拝
詩編 第22篇1〜32節、ルカによる福音書 第18章1〜8節

「失望してはならない」

        ルカによる福音書を1章から順に読み続けて、きょうから18章に入ります。ここで主イエスは弟子たちに、あるたとえを話されました。

 神を恐れず人を人とも思わない裁判官が裁きを行っているこの町に、一人のやもめがいました。「やもめ」とは夫に死に別れた妻のことを言いますが、やもめは聖書において、親のない子、みなしごと並んで社会的弱者の代表です。地位も力も財産もない一人のやもめが、この裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていたのです。「相手」と呼ばれている人とこのやもめの間にどんな争いがあったのかは分かりませんが、想像できるのは、この「相手」は社会的な地位もあり、富や力を持っているのだろうということです。このやもめは、そういう強い相手から自分を守ってくれるようにと裁判官に願ったのです。

 それでは主イエスはこのようなたとえ話を何のためにお語りになったのでしょうか。1節の最初に語られているように、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるためでした。主イエスはこのやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられるのです。ここでは「気を落とさずに」という言葉が大切です。私たちは、祈りにおいて、気を落としてしまうことがあります。失望してしまうことがあります。それは、祈っても自分を取り巻く目に見える現実がいっこうに変わらないという経験の中で起ることです。私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と感じることがしばしばです。目に見える現実の重さ、その圧倒的な存在感に、私たちの祈り、神様に願い求める心がおしつぶされ、信仰そのものが萎えてしまいそうになるのです。わたしたちが置かれているそのような状況を主イエスは、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いておられます。このやもめは、自分の正当な権利を守ってくれるようにと裁判官に訴え出ています。しかし彼女をめぐる現実において支配しているのは、「神を恐れず人を人とも思わない」不正な裁判官なのです。だから彼女の正当な訴えはことごとく無視され、取り合ってもらえないのです。それはまさに気落ちさせられずにはおれないような現実です。もう訴えても無駄だ、どうせ相手にしてもらえない、とあきらめてしまっても不思議ではない事態です。私たちは皆、それぞれ事柄は違っても、まさにそういう現実の中を生きているのではないでしょうか。しかしこのやもめは、そのような現実の中で、失望しないで、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。

 彼女が求め続けたこと、それは「正しい裁きが行われること」です。地位や権力、おカネがある者たちだけが守られ幸福になるのではなく、弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられる、そういう裁きが行われることです。

 いまこの世は、「神を恐れず人を人とも思わない」力に支配されています。そこに「神を恐れ、人を人として大切にする」正しい裁き、正しい支配が確立することをこのやもめは願い求めています。しかも、気を落とさずに失望しないで絶えず求めていたのです。私たち信仰者も、同じことを願い、祈り求めています。神様のご支配とその正しい裁きが行われることを、祈り願いつつ私たちは生きているのです。神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世において、私たちがその祈りを気を落とさずに絶えず祈り続けていくことができるのは、目に見える現実の背後で、神様こそがこの世を支配しておられることを信じているからです。神様の裁きとご支配は既に揺るぎなく確立している、そのことを信じているがゆえに、その裁きと支配が目に見える仕方でも確立することを願い、祈ることができるのです。

 これは、先週までの17章に語られていた、「神の国が来る」ということとつながっています。神の国とは神様のご支配という意味です。その神の国の到来を期待し、待っていた人々に、主イエス・キリストは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言って、ご自分がこの世に来られたことによって神の国が既に実現していることをお示しになりました。その神の国は、主イエスが多くの苦しみを受け、人々から排斥され、十字架につけられて殺され、そして復活なさったことによって実現しました。そのことを告げているのが「神の国の福音」です。主イエスに従う弟子たち、信仰者たちとは、この福音を信じている者、主イエスによって神の国が既に到来したことを信じている者です。しかしその神の国、神様のご支配は、いまはまだ、目に見える仕方で実現してはいません。それは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られ、裁きをなさることによって完成するのです。それまでは、つまりこの世が続く限りは、神の国、神様のご支配は、目に見えない、信じるしかないものです。目に見える現実においてはあいかわらず、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配しているのです。その中で、信仰者は、主イエスによって既に実現してはいますが、目に見えない神の国を信じて、未だ完成していない神の国を待ち望みつつ忍耐して生きるのです。その信仰の歩みにおいては、気を落とさずに失望しないで絶えず祈ることが大切なのです。

 このたとえ話は、神様は必ず正しい裁きを行って下さり、神の国を完成させて下さる、そのことを信じて、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配している現実の中でも、気を落とさずに失望しないで絶えず祈りなさい、という勧めが語られているのであって、その模範としてこのやもめの姿が描かれているのです。そのような祈りに生きることこそ、主イエスによって既に到来している神の国を信じて、未だ実現していないその完成を待ち望む私たちの信仰のあるべき姿なのです。主イエスは私たちがそのような信仰に生きることを求め、期待してこのように語っておられるのです。

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