2020.7.12.主日礼拝
 創世記 第19章23〜26節、ルカによる福音書 第17章22〜37節

「命の得失」

           きょうの聖書箇所の前のところでは、ファリサイ派の人々が主イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねたとありますが、主イエス・キリストを信じる信仰者は、主イエスにおいて、神の国、神様のご支配がこの世界に、私たちのところにすでに到来したことを信じています。この世界を、また私たちの人生を、本当に支配し導いているのは主イエスであり、主イエスを遣わしてくださった父なる神様であることを私たちは信じているのです。しかしそのように信じるからこそ私たちは、その神様のご支配が、今はまだ完成していないこと、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていないことを感じます。そしてそのご支配が確立、完成する日を見たいと願い、待ち望むのです。つまり主イエスに従う弟子や信仰者にとって神の国は、主イエスにおいてすでに実現していると共に、未だ完成していない、目に見える現実とはなっていないのです。この「すでに」と「未だ」の間を生きることが、信仰をもってこの世を生きることです。主イエスのことを信じておらず、受け入れようともしないファリサイ派の人々に対しては、主イエスによって「すでに」神の国が来たことが語られなければなりませんでした。しかし主イエスを信じ従っている弟子たち、主イエスによる神の国の到来を受け入れている信仰者に対しては、それが「未だ」完成していない現実をしっかりと見つめ、その中でいかに生きるかが語られなければならないのです。

 神の国の到来、完成を信じて待ち望みつつ歩むことが私たちの信仰です。しかしそれは、まさに雲をつかむような、希望とは言えないぐらいはるか遠くの希望を見つめて生きることではなくて、この地上ですでに起ったこと、神様の独り子であられる主イエスが罪にまみれたこの世に一人の人間として来てくださり、多くの苦しみを身に負って歩んでくださり、そして人々から排斥されて十字架にかけられ、処刑されたことをこそ見つめて生きることなのです。25節をご覧ください。

しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。

 主イエスは多くの苦しみを受け、排斥されて十字架にかけられ殺される、その歩みにおいて、私たちの罪を全てご自分の身に背負い、その赦しのための犠牲となってくださったのです。主イエスの苦しみと死とによって、私たちの罪を赦し、神の子としてくださる神様の恵みのご支配が実現したのです。私たちは、この主イエスの苦しみと十字架の死にこそ、神の国の到来の確かな現れを見ます。私たちが神の国の到来を信じ、そこに希望を置いて生きることができるのは、はるか遠くのキリストの再臨を見つめることのみによるのではなくて、キリストが私たちのために多くの苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことを見つめることによってなのです。

 26節以下には、このキリストの苦しみと死とを見つめつつ、そこに神の国の到来があることを信じ、そしてそれが世の終わりにキリストの再臨によって完成することを待ち望みつつ生きる信仰者の生き方、そこにおいて何を大事にして歩むべきかが教えられています。

 先ず、ノアのことが語られています。創世記第6章から9章にかけて語られている、洪水と、ノアの箱舟の話です。27節に「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」とあります。人の子が現れる時にもそれと同じことが起るというのです。この話は何を語っているのでしょうか。洪水がある日突然始まったように、キリストの再臨もある日突然起る、ということでしょうか。いやむしろ見つめるべきことは、ノアが大きな箱舟を造っているのを見ながら、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた、ということではないでしょうか。ノアが箱舟を造っているのは、人間の罪に対する神の怒りによる滅びが迫っている、という警告です。しかしその警告を見ながら、人々はそれに目を留めようとせず、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという目に見える現実的な自分の生活にのみかまけていたのです。28節以下のロトの話、つまりソドムの滅亡の話も同じです。ソドムの人々の罪のゆえにこの町は滅ぼされようとしている、ロトはそのことを嫁いでいる娘たちに伝え、共に逃げ出すことを勧めますが、娘婿たちはそれを冗談だと思って聞き流し、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」という日々の営みを続けたのです。そのために彼らは滅ぼされてしまった。それは彼らが、迫っている滅びと、そこから救われるために必要な悔い改めへの招きを真剣に受け止めなかったからです。それは私たちの事柄として言えば、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みが示され、そのことによって「神の国はすでにあなたがたの間にある」と宣言されているのに、その神の恵みのご支配に即して生きることよりも、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという目に見える地上の生活のみに目を向けている、ということです。あなたがたはこのような歩みに陥らないように、主イエスによってすでに到来している神の国を信じ、今はまだそれが目に見える現実とはなっていないこの世の現実の中で、主イエス・キリストにおける神の国、すなわち神のご支配を信仰の目で見つめつつ生きなさい、と主イエスは言っておられるのです。主イエスの十字架の死によって実現している神の国、すなわちを信仰によって見つめる者こそが、主イエスの復活によって神様が与えて下さっている肉体の死を超えた永遠の命を保つ者なのです。

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