2020.6.21.主日礼拝
 レビ記 第13章45〜46節、ルカによる福音書 第17章11〜19節

「神をあがめるためにもどれるか」

      きょうの聖書の箇所は、主イエスの奇跡に関わる話です。主イエスはそのご生涯において数々の奇跡を起こされました。きょうのところは「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」という小見出しが付いています。しかしながら「重い皮膚病の人の病気が治る」ということそれだけの話ではないというのがきょうのところの中心です。

 主イエスは弟子たちとエルサレムへの旅を続けておられました。その旅の途中で、ある村に入られました。

 12〜13節をご覧ください。

 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。

ある村には重い皮膚病を患っている人たちがいました。彼らは主イエスに「憐れんでください」と憐れみを求めます。彼らは主イエスが各地で病を癒しておられるという評判を聞き知っていたのでしょう。それにしてもなぜ彼らは「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げ」たのでしょうか。 当時重い皮膚病は、恐ろしい伝染病とされていました。そして、その病にかかった人は、宗教的にも汚れた者とされ、地域の人たちからもつまはじきにされていました。

 14節をご覧ください。

 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 主イエスはなぜ「祭司に体を見せなさい」とお命じになったのでしょうか。それは、この病気にかかった人は宗教的に汚れた者とみなされていたので、病気が治っても祭司に清めの儀式をしてもらわなければ、社会に復帰することができなかったからです。彼らは祭司の所に行く途中で治りました。彼らは治る前に主イエスを信じて祭司のところに向かったのです。まだ治っていないにもかかわらず、主イエスの言葉を信じて祭司の所に向かったのです。まず患部に手を触れてもらって治ってから祭司のところに向かったのではありません。

 15節から16節をご覧ください。

 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

 患者たちは主イエスに病を治していただきました。主イエスは遠くに離れていても病を癒してくださいました。それはまさに奇跡でした。患者のうちの一人が祭司のところに行く途中で病気が癒されたことに気がついて、主イエスのところに戻ってきたのです。彼は大声で神を讃美しながら戻ってきました。帰る道のりはどのくらい遠かったかはわかりませんが、大声で神を讃美しながら戻って来たというのですから、道すがら通行人はさぞかし驚いたことでしょう。しかし、彼はそんなことにはお構いなしで、喜びを全身で表して戻って来たのです。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。彼はそれほどにうれしかったのです。サマリア人だけが戻って来て神を讃美し、主イエスの足もとにひれ伏して感謝しました。なぜサマリア人だけがひとりで戻ってきたのでしょうか。

 13節に 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。とあります。彼らはその時には「主イエス」とは言っていません。もともと彼らはイエスを救い主だとは考えていなかったのです。10人は癒されたのですが、このサマリア人だけは、この主イエスの御業によって本当に自分が身も心も自分のすべてが生きる喜びに満たされ、体だけではなく魂も癒されたということに気がついたのです。自分の全人格のすべてが癒されたということがわかって、心の底からの喜びに満たされたのです。彼はこの人こそ救い主だということがわかったのではないでしょうか。だからこそ、すぐに戻ることができました。喜びの余り戻る道すがら大きな声で神様を讃美し、主イエスのお姿を見たら、主イエスのところに走り寄って、主の足もとにひれ伏して感謝したのです。主イエスは、このサマリア人に「立ち上がって、行きなさい」とおっしゃいました。

このサマリア人は、その後もこの村で暮らすことができたでしょうか。 他の村に移住することになったのでしょうか。いずれにしても、それから、彼にとって新たな人生が待ち受けていることでしょう。彼の新たな人生は、これまでと違ったものになります。なぜならそれが神を信じて生きる新しい人生だからです。しかし、その道は必ずしも順風満帆なものではないかもしれませんが、彼は神様を信じて困難の中にあっても、神様の恵みに感謝して、祈りと感謝の生活を送ることができることでしょう。ある意味ではこのことは、病気が治ること以上にたいせつなことなのです。

 テサロニケの信徒への手紙一5章16節から17節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。これは苫小牧教会の年間主題のもとになっている聖句です。

 神様に信頼し、神様に感謝し、祈る生活は、わたしたちが救われて生きる道です。これこそが信仰による救いなのです。このサマリア人は主イエスとの出会いによって、信仰による救いが与えられたのです。19節 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 ある人は、ここでサマリア人がしたように神を讃美し、主の足もとで感謝をすることがわたしたちの礼拝だと言いました。大きな声で神様を讃美し、主イエスの足もとにひれ伏して感謝することが礼拝にあたるものなのです。そしてそのように礼拝をお献げしていく生活がわたしたちにとっての救いです。神様に感謝し、神様を大きな声で讃美する礼拝をお献げしていくことがわたしたちの救いなのです。毎週の主日の礼拝ごとに「立ち上がって行きなさい」という主の力強い励ましの御言葉をいただき、主によって新しくされて一週間の歩みを踏み出して行くことができるのです。

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