2020.6.14.主日礼拝
 レビ記 第19章13〜18節、ルカによる福音書 第17章1〜10節

「赦し・信仰・奉仕」

      今日の聖書の箇所のテーマは、何かと申しますと、キリストを信じて生きるということ、クリスチャンとして生きるとはどういうことかということです。キリストを信じて生きるということは「キリストの僕(しもべ)として生きる」ということなのです。キリストの僕としてわたしたちがしなければならないことはなんでしょうか。それがきょうのところの1節から4節にあるのです。

 この1節から4節の話はおもに弟子たちの間、教会の中でのことを指して言っています。教会の中で、同じキリストを信じる者をつまずかせる者は、不幸である。わざわいである。教会の中で仲間を信仰の上で躓かせる者はわざわいだと主はおっしゃっています。2節をご覧ください。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 これは厳しい言葉です。「これらの小さい者」というのは、例えば洗礼を受けたばかりの人のことでしょう。そのような人に対して先輩のクリスチャンが、『クリスチャンたる者はこうしなければならない』というようなことをきつく言って、洗礼を受けたばかりの人をつまずかせ、信仰から離れさせるというような場合が考えられるでしょう。今もそうですが初代の教会でもそういうことは起こったのでしょう。

3節から4節をご覧ください。

 主イエスは、教会の交わりの中で兄弟が罪を犯したら戒めなさい。悔い改めれば赦しなさい。とおっしゃいます。人の罪を赦すということは、簡単なことならまだしも赦すのは難しいこともあるでしょう。ましてや一日に七回も自分に対して犯された罪というのはどうでしょうか。一日に七回も迷惑をかけられて、悔い改めたら赦しなさいとは、無制限に赦せということです。自分に罪を犯した者に対して無制限に、無条件に赦しなさいというご命令です。「実際そんなことができるだろうか。」というのがこの主のご命令を聴いている弟子たちの偽らざる感想だったでしょう。そして、弟子たちが「それは信仰の問題だ。主イエスに信仰を増し加えていただかないととてもできないことだ」と思ったのは、無理もないことのようにも思えます。

5節をご覧ください。

 弟子たちは、自分たちの信仰心が強ければ、奇跡も起きると考えていたのです。自分たちの信仰心の強さに応えて神様が大きなことをしてくださると考えたのです。しかし、主イエスはそんな弟子たちに向かって「からし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃっています。ここに出てまいります「からし種」とは、直径約1oほどの本当に小さい種です。主イエスが問題になさっているのは、信仰心の大きさや量でもなく、ましてや質でもないのです。信仰が「あるか、ないか」なのです。からし種一粒ほどの信仰があるならば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くというような奇跡が起こされるのです。その奇跡を起こしてくださるのは他でもない神様なのです。そのことを忘れてわたしたちはともすれば自分のほうにばかり目を向けて、自分たちにできる範囲のことで考えてしまいます。目を向けるべきは小さな自分ではなく、大いなる力をお持ちである全能の父なる神様なのです。

 7節から10節をご覧ください。

 弟子たちに奴隷がいた場合に、その奴隷が畑から帰ってきたときに、「お疲れさん。すぐに食事をしなさい」と言う主人はいない。と主はおっしゃいます。もしその奴隷が、雇われている労働者だとしたら、与えられている仕事が終われば、その仕事から解放されて、食事をすることもできるでしょうけれども、この奴隷、僕はそういうことは許されていません。それどころか、むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言われるのです。しもべ、奴隷はすべて主人のものですから、奴隷の時間もすべて主人のものだったのです。もちろん残業代などもらえません。給料などもらえません。24時間働けと言われても文句は言えません。奴隷は主人から「やれ」と命じられたらなんでもしなければならなかったでしょう。しかし、これは奴隷の虐待の話ではありません。奴隷は、主人のものだから主人のご命令に従わなければならないというだけのことです。

 それでは、なぜわたしたちは主の僕として、主のご命令に全面的に従い、主に仕えなければならないのでしょうか。それは主ご自身が、わたしたちのためにわたしたちに仕えるためにこの世に来られ僕となってくださったからです。フィリピの信徒への手紙2章6節から7節に次のようにあります。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 主イエスは、わたしたちの救いのために、罪の赦しのために、ご自分が神の身分であられるにもかかわらず、僕の身分になられ、わたしたちのためにその命を捧げてくださいました。それは、畏れるべきことに、神であるお方がわたしたちに僕として仕えてくださってご自分の命まで献げてくださったということなのです。これ以上に畏れ多く、感謝すべきことが他にあるでしょうか。主イエスは、マルコによる福音書やマタイによる福音書でも「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た。人間の救いのために、罪の赦しのために自分の命を献げるために来た。」とおっしゃっています。だからわたしたちは、主の僕として、主の命じられたことを義務感からではなく、喜んでさせていただくのです。

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