2020.6.7.主日礼拝
 申命記 第15章15〜22節、ルカによる福音書 16章19〜31節

「金持ちとラザロ」

     きょうの聖書の箇所の19節に「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」とあります。この金持ちはおカネをたくさん持って毎日ぜいたくに楽しく浮かれて遊び暮らしていました。彼の門前に、ラザロという名の乞食のように生きていた人がいました。ラザロは死にましたが、そのあと金持ちも死にました。金持ちは灼熱地獄のようなところに落とされ、もだえ苦しみます。その金持ちに対してアブラハムは言います。25節に「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」とあります。 金持ちは、「生きている間に良いもの」をもらっていたのにそのことに感謝することなく遊びほうけていたのです。その良いものが自分の力だけで獲得したものだと錯覚していたような場合には神様に感謝の気持ちなど持つこともなく、当然謙虚な気持ちを持つこともなく暮らしていたのです。

 ここでわたしたちが改めて考えなければならないことがあります。自分が持っている財産や富や能力は本来自分だけの努力で獲得したものではなく、神様から恵みとして授かったものだということです。わたしたちが持っているものは神様からお預かりしているに過ぎないものなのです。1節から13節に「不正な管理人のたとえ」がありますが、不正にまみれた富であってもそれを困っている友達のため、隣人のためにフルに賢く用いるならば神様からの大いなる祝福が得られるということがそこで語られています。自分の持っているものは本来自分のものではなく、神様から預けられたものであり、それは自分のためだけに使うのではなく、困っている隣人のために使うべきものなのです。そのことに気づくこともなく、当然神様に感謝することもなくこの金持ちは、上等な服を着て、毎日おもしろおかしく浮かれ騒いで遊んでいたのです。

 この金持ちは死んで灼熱地獄に落とされ、地獄の苦しみの中で、アブラハムに懇願します。必死でお願いします。ラザロを自分の兄弟たちのところに遣わして彼のいまいる苦しいところ地獄のようなところに彼らが来ることがないように説得して下さいとお願いしました。しかし、アブラハムは金持ちに対して29節にありますように「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言ったのです。「モーセと預言者」とはなんでしょうか。これは前の聖書の箇所16節にあります「律法と預言者」と同じ意味です。これは旧約聖書全体のことを指しています。この当時は、新約聖書というものはなく、旧約聖書しかありませんから、すなわちそれは聖書そのもの、神の御言葉ということなのです。「『モーセと預言者』に耳を傾けよ」ということは、聖書の御言葉に聴けということです。しかし、アブラハムは金持ちの言葉に反論しました。30節です。「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』」  しかしその金持ちに対してさらにアブラハムは言いました。31節です。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 モーセはあくまでも「モーセと預言者」に耳を傾けること、聖書に聞くこと、神の御言葉に聴くことを求めました。そうしなければ、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。たとえ「死者が生き返るという奇跡」を見たとしても「その言うことを聞き入れない」だろう、復活した者を見てもその言うことは信じないだろうということなのです。

 悔い改めることすなわち、神に立ち帰ることは、聖書にしっかりと聞かなければ、心を開いて神の御言葉に聞かなければ起こらないのです。そして、信仰によらなければ悔い改めの心は起こらないのです。いくら奇跡を目撃してもそこに信仰がなければ救いはないのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、次のように語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ここで「キリストの言葉」というのは「神の言葉」と言い換えていいと思います。御言葉に聴かなければ信仰は起こされず、従って悔い改めの心は起こらず、救いはないのです。

 ラザロという名前の意味は「神は救い給う」という意味です。ラザロはわたしたちのことも指しています。ラザロはわたしたちのことです。わたしたちもまた神の救い、神の助け、神の憐れみがなければ生きられない者たちなのです。わたしたちは、自分の持っているもの、能力や財産だけによって生きられるという傲慢さを捨てて神の前に謙遜に、謙虚に生きるべきなのです。いつも悔い改めて神に立ち帰ることが大切です。それこそがわたしたちが救われて生きる道なのです。イエス・キリストはわたしたちの罪の赦しのために十字架にかかって死なれ復活なさいました。この罪の赦しの恵みに与っているわたしたちは、神様から与えられているもの、預けられているものをどのように用いたら、自分の門前にいるラザロのために、困っている隣人のために誠実に仕えることができるかということが主から問われているのです。わたしたちがその主エスの問いかけに誠実にお応えして行くことができるように祈り求めてまいりましょう。

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