2020.5.24.ペンテコステ礼拝
 創世記 第11章1〜9節、使徒言行録 第2章1〜13節

「聖霊が降る」

  きょうの聖書の箇所の始めに、「五旬祭」という祭のことが出てまいります。ユダヤ教には大切な祭りが三つあって、五旬祭はその一つです。三大祭りが、「過越の祭」「五旬祭」「仮庵の祭」です。ユダヤ教徒たる者、毎年行われるこの祭りに極力参加しなければなりませんでした。

 2章1節にあります「一同」とはどのような人たちなのか。15節に「百二十人ほどの人々が一つになっていた」とありますから、おそらくその人たちではないかと思われます。その人たちの上に、五旬祭の日に聖霊が降ったのです。

 聖霊とはなんでしょうか。「三位一体なる神、『父と子と聖霊』の中で聖霊というものが一番わかりずらい」という声をよく聞きます。父は神様のこと、子は子なる神イエス・キリストのことです。聖霊は、神の霊です。「神の働き」と言ってもよい。聖霊の霊は、プネウマと言いますが、これは「風」を意味する言葉です。聖霊は、神の息でもあります。創世記にありますように、人間は、土の人形に神様が息を吹き入れられることによって造られました。死ぬことを「息をひきとる」と言いますが、神の息、神の霊が取り去られれば人間は死に、元の土に返るのです。このように聖霊は大きな力を持っているのです。

 きょうのところの2章4節から6節をご覧ください。

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

 集まっていた人々に聖霊が降り、彼らは聖霊に満たされました。そして驚いたことに彼らはそれぞれ外国の言葉で語り出したというのです。彼らは聖霊が語らせるままに語ったのです。聖霊が彼らを用いてお語りになったのです。

 この出来事は何を意味していたのでしょうか。11節に「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」とありますが、主イエスを信じる百二十人の人たちは、神の偉大な業をそれぞれ異なる国の言葉で語っていたということがこの話の中心なのです。「神の偉大な業」とは何か。それは、主の十字架と復活によってわたしたちの罪が赦され、救いの道が与えられたということです。つまり福音が語られたということなのです。違う国の言葉で神の偉大な業が語られた、福音が語られたということは世界に福音が伝えられるということ、すなわち世界宣教の先取りとしての予告がここでなされたと見てよいのです。

 教会では昔から伝統的にきょうの聖書の箇所は、教会の始まり、教会の誕生ということを表し、同時に世界への伝道の始まりを表す箇所だと言われてきました。なぜそういうことが言われるようになったのでしょうか。

 キリストを信じる人たちが集められ、その群れの一人一人に聖霊が降り、世界に向けて神の偉大な業を語ることが始まった、福音が語られることが始まったということそのことはまさに教会の業そのものであるからなのです。主を信じる者たちが一同に集められ、聖霊が降り、聖霊の働きによって、神の偉大な業が、福音がこの世に、それぞれの地域に向かって語られるということが、教会の業であるのです。それが教会ということなのです。ペンテコステの出来事は、教会というものがこの世に誕生したことを表す大きな出来事なのです。

 それではわたしたち信仰者にとって教会はどのような意味をもっているのでしょうか。それはとても重要な意味をもっています。なぜ重要かと申しますと、それがわたしたちの救いにとってとても大切な意味があるからなのです。「教会はキリストの体である」とエフェソの信徒への手紙にはあります。教会は、イエス・キリストそのものなのです。

   ここでルカによる福音書9章23節と24節をご覧ください。

 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

 主イエスがあるとき弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という質問をなさいました。この聖書の箇所は、それに対してペトロが「あなたは神からのメシア、救い主です」と信仰の告白をした後で、主が弟子たちに言われた言葉です。主は弟子たちに対して、「あなたたちは救われたければ、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とおっしゃいました。わたしたちがキリストにお従いすることが、わたしたちが救われて生きる道なのだとおっしゃったのです。

 それでは「キリストにお従いする」とはどういうことでしょうか。それは、「キリストの体なる教会」の一員となり、教会に仕えることです。教会という共同体の交わりの中で礼拝を献げ、互いに祈り合い、助け合って生きることです。キリストを信じ、キリストに従うということはキリストの弟子たちの共同体すなわち教会に加わることなのです。キリストを信じるということは、教会を信じることであり、教会の交わりに加わって、教会に集う人たちと共に礼拝を献げ、信仰生活を送ることを意味するのです。それが「神を愛し、隣人を愛して生きること」であり、わたしたちが救われて生きる道なのです。ペンテコステの意味を深く覚えるこの日、改めてこのことを深く心に留めて、主の弟子として、これからも福音の伝道と教会形成の業に励んで行くことができるように祈り求めてまいりましょう。

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