2020.5.24.
 エレミヤ書 第17章9〜10節、ルカによる福音書 第16章14〜18節

「神は心をご存じ」

   きょうの聖書の箇所の最初のところで、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。彼らはなぜ主イエスをあざ笑ったのでしょうか。「金に執着する」とは、直訳すると「金を愛する」ということです。「一部始終」とは、文脈からすると、前の節の13節のところを指しているのでしょう。 13節 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

「神と富との両方に仕えることはできない」という主イエスの言葉を聞いて彼らはあざ笑ったのです。彼らは、律法に対しては真面目な人たちでしたが、富を追求することは拒否していませんでした。金持ちになることは、神の御心に反しない、富を獲得することと律法を守ることとは矛盾しない、富を獲得することは神の道に適うことだ考えていたのです。そういう意味では彼らは現実的ではありました。だから主の御言葉を馬鹿にしたのです。あざ笑ったのです。

 15節をご覧ください。

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。

 ファリサイ派の人々は、「人に自分の正しさを見せびらかす人々」だと見なされていました。事実彼らは、これ見よがしに人前で長い祈りをしたり、神様を深く信じているという風に人に見せようとしました。断食を一生懸命にしたり、たくさん献金をしたり、ということを見せびらかしていたのです。主イエスはその彼らを「偽善者」とお呼びになりました。

 ところで、きょうの聖書の箇所の16節をご覧ください。

 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。

 ここで突然「律法と預言者」という言葉が出て来ますが、これは旧約聖書全体のことを表しています。「ヨハネ」とは、洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネの時までが旧約聖書の時代であったということです。旧約聖書の時代において、律法を守って救いに入れられているのは、神の民イスラエルに与えられた特権でした。しかし、主イエス・キリストが洗礼者ヨハネのあとに現れてからは、神の国の福音が宣べ伝えられ、イスラエルの民だけでなくその福音を信じる者が救いに入れられるようになったのです。この時代からはイスラエルの民だけではなく、異邦人であっても福音を信じて「狭い門から」(マタイによる福音書7章13節)入ろうとする人たちが救いに入れられるという道が開かれました。しかし、そうなったあとでも律法の効力、有効性は揺るぎのないものであり、なおそれは有効なのだと主はおっしゃいます。

18節をご覧ください。

 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。

 これは、律法の離婚に関する規定ですが、この規定は主イエスの解釈です。離婚に関する決まりはユダヤ教では、本来はもっと緩やかなものでした。申命記24章1節には次のようにあります。

 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

この離婚の決まりはかなり緩いものです。現代においてはこの決まりは女性から見ればとても受け入れられるような内容ではありません。「妻を気に入らなくなったときは離婚できる」という規定は受け入れられるものではないでしょう。もちろん、当時でも無制限にこの規定をあてはめてよいということではなく、夫の側には倫理的社会的な縛りはあったことでしょう。この決まりに対して18節の主イエスがおっしゃる離婚の決まりはかなり厳しいものです。それはなぜなのでしょうか。創世記にもありますように、結婚とは、二人が父母を離れて一体となり、お互いがふさわしい助け手として、お互いが協力して生きていくという創造の秩序における基本的で大切な関係だからです。だから、離婚に関しては簡単に考えることはできないのです。主イエスは、律法を文字の上で形式的にとらえてそれを守るということを弟子たちに強制なさったのではありません。律法における神の御心を探り、律法を主は心でお読みになって解釈され、現実にあてはめられたのです。一方、ファリサイ派の人たちは字面だけで、形式的に律法を解釈して守ろうとしました。しかしその態度は神様に対する誠実さ忠実さに反することです。律法の決まりを守るということを人に見せびらかすものではありません。それは神様への忠実さ、誠実さを表すものではありません。神様がわたしたちの心をご存知であるがゆえに、人の評価を気にすることなく、見えないところでも神様と隣人に対して忠実に誠実に仕えることが神様の御心なのです。人の評価は二の次なのです。  「忠実さ」「誠実さ」ということでは、先週読みました聖書の箇所でも取り上げられておりました。10節から12節をご覧ください。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。

 わたしたちは、たとえどんなに小さなことであってもそれが神様から与えられた課題であるということを信じて、自分が持っているものをフルに、賢く用いて神様と隣人に対して忠実に誠実に仕えるならば、わたしたちに大いなる祝福が与えられるということを主イエスは約束してくださっています。神様がわたしたちの心をご存知であるが故に人の評価など気にすることなく、自分が出来ることを精一杯、神様のため、隣人のために奉仕することができるのです。                                   閉じる