2020.5.10.
 詩編 第103篇1〜22節、ルカによる福音書 第15章11〜32節

「なだめてくださる御方」

   今回は前回に引き続いて「放蕩息子のたとえ」のところを読みます。二人の兄弟がいました。弟のほうが父に財産をくれとせがみ、その財産をおカネにかえて、それを全部使い果たしてしまいます。遊びに使って一文無しになってしまいます。そのころ飢饉が起こり、彼は食べるものもなくなってしまい、飢え死にしそうになり父の元にボロボロになって帰ってきます。普通ならそんな息子を叱りつけるはずですが、父は喜んで迎えます。父は悔い改めて帰って来た息子を歓待します。そんな父の姿を見て、兄は怒ります。兄の怒りはもっともなことにも思えます。「まじめに父に仕えてきたわたしは一体なんなのだ」という兄の抗議はもっともなことです。ほとんど誰もが兄の立場ならそう言うでしょう。しかし、兄は父親の考えがまったく理解できないのです。兄はあくまで自分の正しさにこだわっています。自分は一生懸命に父に仕えて正しく生きているのに、あんなだらしない弟になぜよくしてやるのかわからないと思ったのでしょう。

 彼の言い分は「自分のほうが正しい。この取り扱いは不公平であり、不当だ」ということでしょう。確かに一般的に言うならばそういうことも言えるでしょう。しかし、この不公平とも言える取り扱いこそ神様の御心なのです。神は愛なる御方です。神様はすべての人間を等しく愛してくださっています。しかし、兄は、自分が正しいと主張しました。自分の正しさにこだわりました。彼は父親に文句を言いました。彼は自分の正しさに基づいて文句を言ったのです。しかし、神様の愛や恵みはすべての人に公平に注がれています。それは、誰かが神様に対してどれだけ熱心に奉仕したかということに関わりなく注がれるのです。この世のものさしや価値観は、「がんばったらがんばっただけの報酬が得られる」というものです。それは成果主義、能力主義ということです。しかし、神様は違います。神様はわたしたち人間の頑張りがどれだけかということに関わりなく、わたしたちを愛してくださり恵みを施してくださるのです。神の愛は無償の愛です。放蕩息子の父親は、神様のことが譬えられています。放蕩息子はわたしたちのことでもあるのです。神様は放蕩息子である弟の罪を赦して、神様のところに立ち戻った者を喜んで迎えてくださるのです。神様の愛に分け隔てはないのです。

 この愛情深い父とは異なり、この放蕩息子の兄は自分の正しさにこだわり、父に文句を言い、弟を非難しました。この兄と同様に自分の正しさにこだわったのが、律法学者やファリサイ派と呼ばれた人たちでした。彼らは旧約聖書の律法の教えをできるだけ厳密に解釈し、実生活の中でどのようにそれを厳しく守ることで神に喜ばれ、神の救いが得られるのかということを考え、実践し、民衆にもそのことを教えていました。だからこの弟のように堕落した罪深い人間を軽蔑し、弟のような人間には神の救いは与えられるはずがないと考えていたのです。しかし、人間はすべて罪人なのです。神の前に正しい者は一人もおりません。それでも神様はそのわたしたちをそのままで受け入れてくださり、愛してくださっています。わたしたちは神様の前で立派なことをしていなくても、何の功績もなくても愛されています。わたしたちがどんなに罪深く、ダメな人間でもそのままのわたしたちを神様は受け入れ、愛してくださっています。神様の愛は、わたしたちの罪を赦してくださるために愛する御子イエス・キリストを十字架かけられたということにもっとも明確に表されています。しかし、どんなに神様がわたしたちのことを愛していてくださっていても、わたしたちの側でその神様を信じていなければ、神様の愛を受けることはできません。その神の愛に応えることもできないでしょう。

 それではその神への信頼、神様を信じる信仰はどのようにしたら得られるのでしょうか。それはわたしたちの努力や決心によるのではありません。もともとわたしたちの中には神を信じる信仰などはないのです。わたしたちは生まれつき信仰を持っているのではないのです。わたしたちは神様からそれを恵みとしていただく他はないのです。わたしたちの力ではそのことをコントロールすることは出来ないのですが、わたしたちが出来ることと言えば、恵みとしての信仰が与えられるようにわたしたちの心を神様に向かって開くことです。そのためには、「神は愛である」という真理を度ごとに聴くことができるところに身を置くということが必要です。そのところとは教会です。教会の礼拝や祈り会の場で「神が愛である」「神は愛なる御方である」ということを聴き続けることによって、神の恵みである信仰を得るために自分自身の心を開くことができるのです。そして教会の交わりによって神の愛を実感することによって、神への感謝の念が生まれ、神様に心を開くことができます。もっとも、地上の教会は罪人の集まりでもありますから、教会の交わりによって神の愛を感じるどころか、傷つき、つまずきを覚えることもあるでしょう。しかし、教会の交わりを愛に基づくものにすることができるように聖霊の力を祈り求めていくことによってわたしたちの欠けを乗り越えて行くことができるでありましょう。教会はキリストの体であり、教会の交わりの中心にはキリストがいてくださるので、わたしたちの欠けをキリストが補ってくださるのです。  神様は、自分の正しさにこだわるファリサイ派のような者たち、すなわちこの兄のような者をもまた顧みてくださるということにも心を留めましょう。28節にありますように、父はこの兄を「なだめて」、兄に対してもいかに父が兄を深く愛しているのかということを述べて、弟が悔い改めて帰って来たことを一緒に喜ぶように兄に促したのです。わたしたちもまた悔い改めて神に立ち返ることができるようにお互いを励まし合って行きたいと思います。そして、当教会の年間テーマにもありますように、神を信じ、神に感謝し、神に祈り、神を喜ぶ群れとなれるように祈り求めてまいりたいと思うのであります。わたしたちはそのことを信じて教会の業に励んで行きたいと思います。

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