2020.4.26.
 イザヤ書 第55章1〜7節、ルカによる福音書 第15章11〜24節

「走り寄ってくださる神」

きょうのところは、主イエスが語られた譬え話です。登場人物は、父親と息子です。二人の息子のうち弟が自分の相続分を予めもらおうとして、父にせがみました。彼はその財産をおカネに換えてそれを持って旅に出ましたが、おカネをすべて使い果たしてしまい一文無しになりました。そして、タイミングが悪いことにその地方がひどい飢饉に見舞われました。彼に食べ物をくれる人は誰もおらず、飢え死にしそうになりました。彼はまさにどん底の生活に堕ちてしまったのです。

 17節で「そこで、彼は我に返って言った」とあります。彼は自分の犯した罪に気づき、父の元に帰ろうと決心しました。自分の罪を悔いて、父に赦しを請おうとしたということです。

20節

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

ここで不思議に思うことがあります。現代のように携帯電話やスマートフォンのない時代に、その父親はなぜ息子が帰って来ることがわかったのでしょうか。そのときたまたま家の外に出ていて息子が来るのがわかったのでしょうか。おそらくこれは、父が、息子が帰ってくるのを家の外で毎日待っていたのではないでしょうか。息子が家を出た次の日から父親は、息子の帰りを毎日来る日も来る日も待っていたのです。ここに出てくる父親は、このボロボロになって帰って来た息子を叱りつけるようなことはせず、彼を赦し、大きな喜びをもって彼を迎え入れたのです(22〜24節)。

 20節に「・・・父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。家父長制の時代だったこの頃のイスラエルで、父親というものは威厳のある厳しい存在であり、父親が自分から走り寄って息子を迎え入れるなどということはあり得なかったことです。ましてやせっかく分けてやった財産を使い果たして一文無しになり、帰ってきた放蕩息子に対してそのように迎えるなど考えられないことでした。

 きょうのところは他人事の話ではありません。この話をわたしたちは、なにか芝居を観ている観客のような立場に自分を置いてこの話をぼんやり眺めていることはできないのです。わたしたちは、この弟のように神様の前に立つことすらできない惨めで哀れな罪人です。このことを自分たちのこととして受け止めなければなりません。

 神様はそのようなわたしたちの罪を赦してくださり、神様の前に立つことができるようにしてくださいました。それは愛する御子イエス・キリストをわたしたちの代わりに十字架にかけられ、罪を赦してくださったからです。

 この弟は、自分の罪に気づき、父親の許に帰ることが出来ました。しかし、わたしたちはわたしたちの力だけでは悔い改めること、神様の許に立ち帰ることはできません。わたしたちの深い罪を気づかせてくださるのは、主イエスです。罪深いわたしたちが自分の罪の深さに気づき、神様の許に立ち戻れるようにわたしたちをいつも招いていてくださるのです。

 ここで、ルカによる福音書22章54節から62節をご覧ください。新約聖書の156ページです。

この場面は、主イエスが弟子のひとりであるイスカリオテのユダに裏切られ群衆に捕らえられ、大祭司の家に連行された時の様子を表しています。翌日裁判で主イエスは死刑の判決を受けるのです。弟子のペトロは、こともあろうに主イエスを「知らない」と言ってしまいます。ペトロは「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」とさえ言っていたのでした。それにもかかわらず敬愛する主イエスを裏切るようなことを口走ってしまったペトロの胸中はどんなものだったのでしょうか。彼の胸中は言葉に言い表せないほどの苦く、苦しい思いで満たされていたことでしょう。61節にありますようにそのペトロを主は「振り向いて・・・見つめられた」とあります。どのような思いで主はペトロをみつめられたのでしょうか。ここにははっきりと記されてはおりませんが、おそらくこの眼差しは、放蕩息子の父親が抱いたような深い憐れみに満ちたものだったのではないでしょうか。  この翌日に、主は最高法院で死刑の判決を受け、十字架にかけられ、わたしたちが想像もできないほどの苦しみを受けられ死なれます。しかし、三日目に復活なさり、ペトロを始め弟子たちにそのお姿を現されます。ペトロは主イエスを裏切ったのですが、復活の主にお目にかかって、主の後に従う道を歩むことができました。そして後に殉教の死を遂げるほどに彼は変えられて行ったのです。復活の主はペトロの罪を赦してくださいました。そしてペトロは、新しく変えられました。  わたしたちは、日常の生活において様々な誘惑にとらえられます。悪魔サタンはわたしたちの信仰をなきものにしようといつも狙っています。弱いわたしたちは、その誘惑に負けて神に背き、神から離れて生きるようになってしまいます。その罪深いわたしたちの前に復活の主は、礼拝ごとに現れてくださり、わたしたちの罪の汚れを清めてくださり、御言葉によってわたしたちが悔い改めて、神様の許に立ち帰ることができるようにしてくださいます。悔い改めること、神様に立ち帰ることはわたしたちの力だけではできないのです。  わたしたちは、神様にたいして悔い改めること、神様に立ち帰ることによって、古い着物を脱ぎ捨て、新しい着物に着替えるようにして礼拝の度ごとに新たに造り変えられていくのです。それは神様の大きな恵みです。わたしたちが悔い改めて神様に立ち帰ることを神様は何よりも喜んでくださいます。わたしたちは毎週ごとにこのように新しく造り変えられ、救いの恵みの中に入れていただけるように祈り求めてまいりたいと思うのです。                                   閉じる