2020.4.19.
 エゼキエル書 第34章11〜16節、ルカによる福音書 第15章1〜10節

「神の喜びに担われて」

 きょうの聖書の箇所でここにふたつの譬え話が出て来ます。このふたつの譬え話は、「失われたものが見つかったときの持ち主の喜びの大きさ」ということが語られています。最初の譬え話に出てくる「百匹の羊を持っている人」というのは、特に豊かと言うわけではありませんが、その持っている羊の1匹がいなくなってしまったというのです。当然持ち主はその羊を探します。その1匹を探そうとする場合に残りの九十九匹を野原に残して、いなくなった1匹を探すというのです。これは一見すると合理的ではありません。九十九匹を見張りもなし野原に残してしまったらオオカミなどの野獣に襲われて食べられてしまうでしょう。合理的に考えるならば、一匹の犠牲よりも九十九匹のほうを大切にするでしょう。しかし、その持ち主はあえて危険を冒してもいなくなった一匹を探し回るというのです。とにもかくにもなりふり構わずいなくなった1匹を探すのです。この持ち主は合理性などということは眼中にはありません。とにかくいなくなった羊のことが心配で仕方がないのです。それだけに羊が見つかったときの喜びは大きいのです(5,6節)。

 人間の場合にはどうでしょうか。例えば自分の家族が家出をしていなくなってしまったような場合はどうでしょうか。自分の大切な愛する家族がいなくなってしまったらわたしたちはあらゆる手段を使って探そうとするのではないでしょうか。わたしたちは夜も寝られないほどに心配します。そのいなくなった家族が見つかったらわたしたちの喜びは、譬えようのないほど大きなものなのではないでしょうか。

 羊の持ち主とは誰のことでしょうか。もうお分かりのようにそれは天の父なる神様のことです。7節をご覧ください。  「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 「見失った羊」とは、「一人の罪人」のことです。この譬え話で主イエスはいったい何をおっしゃりたいのでしょうか。「神様が喜んでくださるようにあなたたちも悔い改めよ」ということでしょうか。そうではありません。一見するとそのようにもとれますが、そうではないのです。この話の主眼は、失われた羊を見い出した持ち主すなわち神様の喜びがいかに大きいかということなのです。羊の側での悔い改めと言うことはここではほとんど問題にされていません。あくまで主眼は、神の側の喜びなのです。「悔い改める」という言葉はこれまでたびたび出て来ました。聖書の中で大切な言葉です。意味は「自分のしてしまったことについて、そんなことをすべきではなかったと後悔する、悔いる」という意味よりも「神様に立ち返る」「神様に立ち戻る」ということです。

8節から10節をご覧ください。

 この譬え話も最初の話に似ています。ドラクメ銀貨は、一枚で当時の労働者一日分の給料の価値があると言われています。10枚ある内の一枚がなくなってしまって、持ち主の女性が家の中を探したというのです。当時のイスラエルの家は窓はなく昼間でも暗い状態でした。その中をともし火で探すというのは手間のかかることです。懐中電灯よりも暗い明かりで暗い家の中を探すのは大変です。しかし、その女性は見つかるまで一生懸命に探すのです。そして見つかったら友達や近所の人たちを呼んで大いに喜び合うというのです(10節)。「なくなっていた銀貨」すなわち「神から離れてしまった人」を見つけ出したときに、すなわち罪人が悔い改めたとき、神様は大いに喜んでくださるということがここで語られているのです。

 このきょうの譬え話をわたしたちのことにひきつけて考えてみたいのですが、わたしたちは日常生活の中で日々様々なことが起こり、わたしたちの信仰をなきものにしようと悪魔サタンが狙っています。そのような中わたしたちは神様を見失い、神様から心が離れてしまうということも起こってまいります。そのようなときにわたしたちは自分の力で神様に立ち返る、すなわち悔い改めるということはなかなか難しいことだと言わなければなりません。わたしたちは弱いので自分の力だけでは、悔い改める、神様に立ち返ることができないのです。大切なことは、神様から離れてしまったわたしたちを神様が見つけてくださるまでわたしたちは自分自身を神様に委ねることです。大切なのは、神様がわたしたちを見いだしてくださるということに信頼することです。主日の礼拝において主イエスがわたしたちのところにお出でになり、わたしたちを見いだしてくださるのです。そして、わたしたちは、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを神様の許へと連れ戻してくださる御方として主イエスを信じるのです。

 ところで、これらの譬え話を誰に向かって主イエスが語られたのかということを思い起こしましょう。それは、徴税人や罪人たちを忌み嫌っていたファリサイ派の人たちや律法学者たちです。罪人たちと食事を共にするほどに親しく接していた主イエスをよく思っていなかった人たち、主イエスに対して憎しみの感情さえ抱いていたファリサイ派や律法学者たちに向かって話されたのです。主イエスはこの譬え話を語られて、ファリサイ派の人たちや律法学者たちに対して、「神様は人間を分け隔てなさらず愛してくださる御方だということを知りなさい。そして特に罪人と呼ばれる人たちが悔い改めて神様のもとに立ち返ることをなによりもお喜びになることを知って、そのことを神様と共に喜ぶ者たちとなれるように祈り求めなさい」と彼れらに対しておっしゃりたかったのです。「それほどまでに神様はわたしたちを愛してくださる御方だということを心に留め感謝しなさい、罪を犯した者を赦してくださり、どんなに遠くに神様から離れてしまっても、どこまでも探してくださり神様に立ち返るように導いてくださる御方であるということに感謝しなさい」と主イエスはおっしゃりたかったのです。この神様に信頼してすべてを神に委ねて歩んでまいりましょう。

                                 閉じる