2020.4.12.イースター礼拝
 詩編 第98篇1〜9節、マタイによる福音書 第28章1〜10節

「あの方は復活なさった」

 きょうはイースター礼拝をお献げしています。イエス・キリストは十字架にかけられ死なれ三日目に復活なさいました。主イエスは、金曜日に十字架の上で死なれました。主イエスが死なれ、その日、墓に入れられたことを二人のマリアは見ていました(27章59節)。彼女たちは主イエスのことがとても気になって翌日主イエスの葬られた墓に向かいました。

 墓の入り口には大きな石が転がしてあり、塞がれていました。番兵も見張っていました。墓に近づくことはできそうにありませんでした。しかし、その墓の前で奇跡が起こりました。2節と3節をご覧ください。彼女たちが墓の前に来たちょうどそのとき大きな地震が起こり、神の使いである天使が天から降ってきて、石を取り除けたのです。彼女たちは腰を抜かすほど驚いたことでしょう。そして、天使が語る言葉も彼女たちをさらに驚かせるものでした。5節6節をご覧ください。

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

 彼女たちは、空の墓を見せられました。誰かが主イエスの遺体を墓から持ち出したのでしょうか。それは無理なことです。入り口には番兵が夜通し見張っていたのです。彼らに気づかれずに主イエスの遺体を持ち出すことは無理なことでした。主イエスはよみがえられた。復活なさったのです。直訳すると「復活させられた」のです。誰に?天の父なる神によって。しかし、彼女たちにはそのことがにわかには信じられなかったのです。それは男の弟子たちも事情は同じでした。主イエスは以前にご自分が死んで復活なさることを三度も預言しておられたのですが、彼女たちはそれを確信することができなかったのです(16章21節〜、17章23節〜、20章19節〜)。

 弟子たちや彼女たちは、主イエスが「死刑になる」「殺される」ということは想像できても、「復活する」という意味がわからなかったのです。

きょうのところの5節から6節に「 (あなたがたは)十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」とあります。彼女たちは、お墓までやってきました。それは主イエスが亡くなったことをとても悲しく思って、主の遺体のそばにいたかったからです。ここで天使が語った「十字架につけられたイエス」とは何を意味するのでしょうか。主イエスはもう死なれて十字架から降ろされています。直訳すると「十字架につけられて死んで死骸になっているイエス」ということです。

 7節で主の天使はマリアたちに対して「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と弟子たちに話すように命じました。

 ガリラヤは、主イエスの生前における主な伝道の根拠地でした。そこから伝道を始められました。マリアたちは、「主イエスが復活なさって新たな歩みをなさるということ」を天使から告げられました。マリアたちは、それまで「十字架につけられて死なれたキリスト」にこだわっていました。死んだ主イエスとの思い出を大切にして生きようと考えていました。しかし、天使から主が復活なさったことを告げられ、とても驚きましたが大きな喜びに包まれ、そして、彼女たちは、実際に復活の主イエスのお姿を見て、その御声を聴き、主の復活の命に与り、新しくされました。彼女たちは復活の主に出会って、主にお従いするという新しい道を歩むことになりました。彼女たちは復活の主に出会って新しい者に変えられて行ったのです。救いというものが何かということがマリアたちにはわかったのではないでしょうか。死んで遺体になったキリストではなく、復活されて今も生きて働いておられる御方がわたしたちと共にいてくださって、わたしたちに救いを与えてくださっているということが彼女たちにはリアルにわかったのです。天の父なる神様が愛する御子イエス・キリストを復活させてくださったことによって、主イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることを可能にしてくださったのです。そのことがわたしたちにとっての救いということなのです。 そのことに感謝して「キリストを信じて」歩みたいと思います。

 ところで、きょうはイースター・復活祭ということをお祝いする礼拝です。一年に一回の礼拝ですが、毎週わたしたちが主日に献げる礼拝は、しばしば「小さなイースター」と呼ばれます。キリスト教会で日曜日に礼拝を献げるようになったのは、主イエスがよみがえられたのが「週の始めの日」すなわち日曜日だったからです。初代の教会では、主イエスが復活なさった日、すなわち日曜日に主イエスの復活を記念して礼拝を献げるようになりました。わたしたちは、日曜日までの日々を、祈りつつ 聖書の御言葉に従う生活を送るように努めるのですが、しかし弱いわたしたちは、様々な誘惑によって神の教えから離れ、罪のほうに心を向けてしまいます。罪の汚れに染まり、悪魔の誘惑に負けて、過去にこだわり、暗い死の闇のほうに心を向けるようになってしまいます。この世は誘惑が多く、悪魔サタンがわたしたちの信仰をなきものにしようとねらっているのです。闇の力、死の力にとらえられてしまうわたしたちをキリストの復活の光で照らしてくださり、主の復活のご栄光に与って新たな命を与えられ、古い自分から新しい自分へと毎週の礼拝ごとにわたしたちは変えられていくのです。それが毎週の礼拝において与えられる祝福と恵みです。そのことに深く感謝して、これからの日々を歩んでまいりたいと思うのであります。

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