2020.4.5.
 詩編 第40篇2〜18節、ルカによる福音書 第14章25〜35節

「どうしたらイエスの弟子になれるのか」

きょうの聖書の箇所におきまして「わたしの弟子ではありえない」と言うことを主イエスは三度に渡っておっしゃいます。「主の弟子である」ということは、いかなることなのでしょうか。そのことについてきょうは御言葉に聴いてまいりたいと思います。主イエスは旅を続けておられました。それはエルサレムへの旅でした。 26節をご覧ください。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

 「弟子である」「弟子になる」とは、主イエスを信じること、信じて生きること、主イエスに対する信仰をもって生きることをいいます。もっと具体的に言うと洗礼を受けてキリスト者として生きることです。しかし、もしこれから洗礼を受けようと考えている人が26節を読んだときにどう感じるでしょうか。ここをそのまま読めば「親兄弟や、家族を憎むなんてわたしにはとてもできない。洗礼なんて受けられない」と思うのではないでしょうか。「自分の肉親、家族や自分の命を憎む」ということはどういうことでしょうか。 マタイによる福音書10章37節は、きょうの聖書の箇所と似ているところですが、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」とあります。

 これは具体的に自分の父親のことをことさらに憎めということではなく、主イエスを第一に考えているか、愛しているのかということが問題にされているのです。基本的に家族を愛することは当然のことですが、それがすべてになってはいけないということなのです。家族への愛に盲目的になってしまって、神への愛は二の次、三の次になってしまうことがあってはならないということです。キリストへの愛が第一にならなければならない。だから主イエスの弟子であるとは覚悟が要るということです。

 27節に「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」とあります。「自分の十字架」とは何でしょうか。それは、キリストの後についていくことによって生じる重荷のことをいいます。主イエスが教えてくださったことを守ろうとするといろいろ困難が生じます。例えば、礼拝を毎週守ることも家族との関係で困難を覚えることもあるでしょうし、「あなたの敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」という教えを実践しようとするときに困難を感じない人はいないでしょう。その困難がわたしたちが背負うべき十字架です。それではなぜ主イエスに従う者は、自分の十字架を背負わなければならないのでしょうか。それは、天の父なる神様がわたしたちの罪が赦されるため、わたしたちが救われるために愛する御子イエス・キリストを十字架かけられたからです。主イエスは、処刑される場所であるゴルゴタの丘まで重い十字架を背負わされ、歩かされました。十字架の上でわたしたち人間が想像もできないほどの苦しみを味わわれ死なれました。それはわたしたちが救われるためでした。それほどまでに神様はわたしたち人間を愛されています。その愛にお応えして、救いの恵みに与ったわたしたちは、自分の十字架を背負って、主の御苦しみの意味を深く心に刻みつつ主イエスの御後にお従いするのです。自己中心的に生きてしまうわたしたちが、神様と隣人を愛そうとするとき困難を覚えることが多くありますが、それがわたしたちにとって背負うべき自分の十字架なのです。わたしたちは主の弟子として自分の十字架を背負って生きることが求められるのです。

 しかし、その十字架はわたしたちが一人で背負いきれないほど重いものではありません。

その十字架に押しつぶされて歩けないということはありません。 コリントの信徒への手紙一10章13節には次のようにあります。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 このように真実なお方であられる神様は、信仰をもって生きるわたしたちに対して背負いきれない程の重荷を負わせることはなさらないのです。神の真実とはそういうことです。わたしたちはそのことを信じて生きるときに、自分の十字架を背負って生きることができるのです。

 先ほど「主イエスの弟子であるとは覚悟が要る」と申しました。28〜30節と31節から33節までの話も主イエスの弟子になるにあたっての覚悟ということを語っています。

 そしてきょうの聖書箇所の最後のところは、塩の話ですが、ここもキリストの弟子であるとはいかなることかということを表している話なのです。34〜35節をご覧ください。 「塩も塩気がなくなれば」とあります。「塩気がなくなる塩」とは何か。当時の塩はわたしたちが使っております精製されたほぼ純粋なかたちの塩ではなく、山でとれる岩塩でありました。それは塩分以外の不純物を多く含んでいます。その不純物が空気中の湿気を吸うと、苦みのある成分が出て来て、岩塩全体が苦みのある味になってしまうことがあるようです。そうなってしまうと塩は、調味料としての塩ではなくなってしまうのです。それは役に立たないものになってしまいます。キリストの弟子たる者は、「塩気のなくなった塩」のように役立たないものになるな、キリストを信じて生きいる者は、味を失わない生活をしなければならない。キリストに似た者として、キリストの香りを放ち、神の愛を実践して生きなければならないということです。それが、キリストの弟子として生きる道であり、わたしたちの隣人や家族を真に愛していくことができる道なのです。それこそがわたしたちにとっての救いの道なのです。

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