2020.3.29.
イザヤ書 第35章1〜10節、ルカによる福音書 第14章15〜24節
きょうの聖書の箇所の15節で、食事を共にしていた客の一人は、主イエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったとあります。ここで「神の国」という言葉が出てくるのは唐突に思えます。しかし、この客は14節以前に語られた譬え話を素直な心で聴けたので、それが「神の国」に関することだということがわかりそう言ったのです。
主イエスは客の一人の言葉をお聞きになってさらにもうひとつの譬え話をなさいました。 ある人が盛大な宴会を開こうとしました。そこでは多くの人が招待されていました。当時は宴会の招待は、いまの結婚式の披露宴のように予め招待して、招待客の分の席を用意していたのでしょう。その人の僕が宴会の時刻になったので、招いていた人たちを呼びにやらせたのです。しかし、驚いたことに呼ばれていた人、招待されていた人すべてが断って来たのです。いまの言葉で言えば「ドタキャン」です。もし現実に宴会の招待を、招待客全員がドタキャンしたことを想像してみてください。主催者にとっては大損害であり、とても腹立たしいことです。その招待客たちが断った理由が18節から20節までに挙げられています。そのところをご覧ください。 この三人とも理由は不要不急のことばかりです。どれも緊急の用事、切羽詰まった理由とは思えません。畑を見に行くのは明日でもいいでしょうし、牛を調べに行くのも今日でなくてもいいでしょう。結婚したばかりといっても、そのときだけでも妻に留守番してもらえばいいのです。この人たちは招かれていた人たち全員を代表する形でここで登場しています。招待されていた「大勢の人」たちもおおむねこのような理由で全員が招待を断ったのです。それは18節に「すると皆、次々に断った。」とある通りです。「次々に」というところは、新改訳聖書では「皆同じように」とあります。皆同じように自分本位の理由で断ったのです。大勢の招待客全員にドタキャンされたら、それこそ主催者は怒り心頭でしょう。 そもそもなぜ招待された大勢の人たちは宴会の招待を断ったのでしょうか。宴会というのは楽しそうな感じを受けますが、どうなのでしょうか。招待されていた人たちは宴会よりも自分たちの都合を優先したのです。彼らは宴会よりも畑や牛などの財産や家族の絆の方を大切だと思ったのです。 この譬え話は何が譬えられているのでしょうか。これは「神の国」に関することです。この盛大な宴会を主催した人は、神様のことが譬えられています。僕とは誰のことでしょうか。この僕は、主イエスのことです。原文ではこの僕は単数形です。この招待客とは、わたしたちを含むすべての人間のことでもあります。この盛大な宴会の招待は、神の国への神の招きのことなのです。 神様は、できる限り多くの人たちが救われるようにお考えになっています(23節)。その招きに応えるように望んでおられるのです。それでは、その神様の招きに応えるということは何を意味するのでしょうか。 先ほど「招待されて断った人たちは、神の招きよりも自分の財産や家族の絆のほうを優先してしまったのです。」と申しました。このことはわたしたちのことでもあります。ルカによる福音書8章11節から15節をご覧ください。 この箇所は、神の言葉を聴く姿勢のことが譬えられています。わたしたちの心に神の言葉が蒔かれたときに、それをどう聴くかによって、それが途中で枯れてしまうか豊かに実を結ぶことになるかが決まるというのです。8章14節に「 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」あります。宴会の招待を断った人たちは、茨の中に落ちた種とお同じなのではないでしょうか。「富や快楽」などによって神の言葉をよく聴くことができなかったために実が熟さなかったのです。これは、他のことに惑わされて神の招きに応えることができなかった人たちのことを表しているのではないでしょうか。一方では、神様の招きにお応えするというのは、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」ということです。わたしたちは必ずしも「立派な善い心」ではないかもしれませんが、「御言葉をよく守る」ことによって信仰の実りが豊かに与えられるのです。救われて生きる道が与えられるのです。御言葉を実行していくということがわたしたちにとっての救いの道なのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これはテサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節にある御言葉です。苫小牧教会の年間テーマのもとになっている御言葉です。果たして現実にこのことを実践できるだろうかと考える向きもあろうかと思いますが、大切なことはまず実践してみるということです。最初からうまく行かなくてもやってみるのです。そうすれば、神様が助けくださり、実践してみるということを繰り返しているとわたしたちの周りの世界が変わってくるのです。道徳の格言などと違って神の御言葉には力があります。それはわたしたちの人生を変える力を持つのです。終わりの日の最終的な救いとともに、わたしたちは今を生きていく中で救われて生きる道とはそのようなことを言うのです。そのように歩むことができるようにいつも祈り求めてまいりたいと思うのであります。 閉じる