2020.3.22.
 イザヤ書 第57章14〜19節、ルカによる福音書 第14章1〜14節

「神の招きを受ける道」

 主イエスが、ファリサイ派の議員の家に招かれていました。そこに水腫を患っている人がいました。水腫とは、皮下組織に水が溜まる病気です。顔や手足、腹などがむくんで、水ぶくれになります。その病気をもっている人がその場にいました。なぜそのような人がそこにいたのでしょうか。彼は主イエスを試そうとしてファリサイ派の人たちに連れて来られていたのでしょうか。彼らは主イエスがどうなさるかジッと観察していたのです。その様子をうかがっていました。

 3節「そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』」

 安息日は、神様から与えられた戒めです。神様がこの天地をお造りになったとき、七日目に休まれたことから、「七日目にはいかなる仕事もしてはならない」という戒めがイスラエルの民に与えられました。だから「安息日に病気を治すことは律法で許されない」と考えるのが普通でした。しかし、主イエスは、その水腫を患っている人の手をお取りになってその人を癒やされました。彼らはそのことに対していまいましく思ったことでしょう。主イエスは彼らにおっしゃいました。

5節 「そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』」

 「安息日の決まりでは、病人の治療はしてはいけない」というあなたたちでも、自分の息子や牛が井戸に落ちたら安息日だからと言ってすぐに引き上げるのはいけないなどということは言わないだろう。安息日まで待ってから引き上げるなどということはしないだろう。自分の息子は良くてどうして他人はだめなのか、安息日に病人を治すことだって許されるはずではないかと主イエスはおっしゃりたかったのです。律法の教えを守ることだけにとらわれていると大切なことを見失う。その大切なこととは、愛であるということです。

 そのように主イエスは彼らにおっしゃっていると、その食事の席で気づいたことがありました。招待を受けた客の中で上席、上座に座ろうとする人たちにお気づきになったのです。ここで彼らに向かって主イエスは譬え話を語られました。8節から11節をご覧ください。

 ここにあります「宴会の席では上座に座らないで下座に座れ」というのは、礼儀や生活の知恵のように聞こえます。ここで主イエスがおっしゃっていることはそのようなことなのでしょうか。そして11節にあります「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉はそういうことを意味するのでしょうか。そうではないと思います。主イエスの教えは単なる生活の知恵や道徳の教えではないのです。この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、格言のように聞こえます。実際に聖書の各所にこの言葉が出て来ます。例えばヤコブの手紙4章10節に「主の前にへりくだりなさい。そうすれば主があなたを高めてくださいます」というところがあります。それは道徳の教えではなく、神様の御業に関わることなのです。

 それでは、なぜわたしたちがへりくだらなければならないのでしょうか。それは主イエスが、他ならぬこの罪深いわたしたちのために畏れ多いことに低くなってくださったので(へりくだられたので)、主イエスの弟子であるわたしたちは、神様の前にへりくだるのです。

フィリピの信徒への手紙2章3節から11節をご覧ください。この箇所は「キリスト賛歌」と呼ばれているところです。ここに「へりくだる」という言葉が二度出て来ます。主イエス・キリストは、神と等しい身分であられるお方であるにもかかわらず、僕の身分になり、わたしたち罪深い人間のために仕える御方になられました(フィリピ2章6〜8節)。それはそのご生涯において、罪深い人間の敵意や妨害や迫害の中、弱い者、虐げられた者、貧しい者たちの救いのために働かれたということに現されています。特にわたしたちの罪が赦されるためにわたしたちの身代わりになられて、十字架につけられて死なれたということにおいて究極的な形で示されています。それは神の御心によることであり、主イエスが十字架の死に至るまで天の父なる神様に従順であられたということです。父なる神様に服従なさったということです。そのことを「へりくだり」ということによって、主イエスはわたしたちに示してくださいました。主イエスの弟子であるわたしたちはそのことにならって、神様の前にへりくだる者となれるように祈り求めるべきなのです。

 それでは、「へりくだる」ということはいかなることなのでしょうか。それは「神の愛に生きること」です。1節から6節にありますように、安息日に病気を治すことに代表されるような愛の業を行うことです。「敵をも愛する愛」(6章35節)に生きることです。

 主を信じて歩むならば、わたしたちは「神の愛に生きる者」に変えられていきます。そしてわたしたちには報いが与えられるのです。14節にありますように、終わりの日には復活の命をいただき、永遠の命に生きることができるのです。またわたしたちは、神の国の宴会に招かれています。わたしたちは毎月聖餐にあずかりますが、それは終わりの日にあずかる神の国の祝宴の先取りでもあると言われております。わたしたちは、聖餐に代表される神の国の宴会に招かれているのです。神の国にいつもわたしたちは招かれているのです。神の招きをいつも受けているのです。その神の招きを受けるには、神様の前にへりくだる者になることです。神の愛に生きる者になることです。神の招きを受けて、それにお応えして、主の御後に従って歩む者になることです。そのことこそがわたしたちにとっての救いの道なのです。

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