2020.3.15.
 詩編 第118篇22〜29節、ルカによる福音書 第13章31〜35節

「神の御業は進む」

 主イエスは、町や村で神の教えを宣べ伝えながらエルサレムへの旅を続けておられました。あるところで説教をしておられたところに、ファリサイ派と呼ばれる人たちがやってきて、主イエスに言いました。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

 ヘロデとは、ヘロデ大王の息子でヘロデ・アンティパスのことです。彼は、ガリラヤとペレア地方を支配する領主でした。主イエスはファリサイ派の人たちにおっしゃいました。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」(33節)。ここで言われている「自分の道」とは何でしょうか。この言葉は原典にはありません。直訳すると「わたしは行かなければならない」です。どこに行かなければならないのか。それはエルサレムです。そこで主イエスは殺されます。処刑場であるゴルゴタへの道を重い十字架を背負わされて、歩かされます。その前に、辱めを受け、鞭で叩かれます。つばを吐きかけられ、棒で何度も叩かれ、裁判で死刑判決を受けます。主イエスはそのような目に遭って筆舌に尽くしがたい苦しみを受け、死なれます。主イエスはそのことを予めご存知でした。そのようなことになるのをご存知でした。エルサレムへ向かう道は、十字架への道だったのです。

 主イエスは、このようにエルサレムで十字架にかけられて殺されます。これは天の父なる神様のご意志でした。「自分の道を進まねばならない」と主イエスがおっしゃったのは、「必ず進むことになっている」という意味です。それが神のご意志だからです。ヘロデがどんなに邪魔しようとしても止められないのです。ヘロデならずともその道を止めることはできません。主イエスは「エルサレムにたどり着くまでは死ねない」とおっしゃるのです。

 先ほど「十字架への道は、神のご意志だ」と申しました。主の十字架への道、苦しみの道を歩まれたのは、何のためでしょうか。それはわたしたちの罪が赦されるため、わたしたちの救いのためでした。神様は、わたしたち人間の深い罪が赦されるために、愛する御子イエス・キリストを十字架につけられたのです。罪の罰として十字架にかけられるのは、本来はわたしたち人間であったのに、主イエスがわたしたちの身代わりになってくださり、十字架の刑罰を受けてくださったのです。主イエスは十字架にかけられ死なれ、三日目に復活されました。死の力に打ち勝たれ、そのことによってわたしたちの深い罪が赦され、わたしたちに救いの道が示されたのです。

 主イエスが、十字架にかけられたということは、人間の目から見れば、惨めな敗北にしか映らないことなのですが、神の救いの歴史においては、それは神のご栄光が最も偉大な形であらわされたことなのです。それが、「主の御業」(詩編118篇23節)であり、「わたしたちの目には驚くべきこと」(同)なのです。主イエスが、エルサレムへの道を歩まれ、そこで成し遂げられたことはまさに神の御業であったのです。

 きょうの聖書の箇所の34節をご覧ください。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 これは主イエスの厳しいお言葉です。主の御業が成し遂げられた街エルサレムは、ダビデが王として都を定めたところです。ここはユダヤの国の中心地でした。重要な都市でした。そこでは、旧約聖書の昔に神から遣わされた多くの預言者、神の言葉を告知する者を迫害してきました。預言者たちから、エルサレムの人々に対してめん鳥が雛を羽の下に集めるように、神の言葉を信じ、悔い改めて、受け入れるようにとの呼びかけがなされてきたのにもかかわらず、イスラエルの民はそれを拒み、預言者たちを迫害してきたのです。そのことについて主イエスは、イスラエルの民に呼び掛けられます。それは、わたしたちへの呼び掛けでもあります。わたしたちは、預言者たちを迫害して殺したりはしませんが、預言者が語った神の言葉をえり好みし、それを自分勝手に解釈し、神の言葉を殺してしまう者たちです。わたしたちは神の言葉をときには受け入れようとせず、神様の招きの手を振り払い、神様の呼び掛けに背を向けて、自分勝手に自分中心に生きようとしてしまう罪深い者たちです。そのようなわたしたちの救いのために主イエスはわたしたちにとるべき道を指し示してくださいました。

 35節をご覧ください。

 「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

 これは、「主の名によって来られる方」すなわち主イエス・キリストを受け入れ、祝福を祈ることができるならば、神の救いを見ることができる。神の救いに与ることができるということなのです。

 先ほど、主イエスが進まれる道、すなわち神の御業はエルサレムにおいて、十字架において、十字架と復活において神の御業は成し遂げられたと申しました。しかし、最終的な救いの完成はまだこれからなのです。神の国、すなわち神のご支配はまだ完成していないのです。確かに、主イエスの十字架と復活によってわたしたちの罪が赦されるという、わたしたちの救いにとって決定的な御業がなされましたが、まだわたしたちには多くの罪が残り、罪を犯し続けています。神様はわたしたち人間の悔い改めを待っていてくださっています。そして、この世ではまだまだ多くの人たちが、神の福音を知ることなく、救いから漏れてしまっています。一人でも多くの人たちが神の救いの道を歩むことができるように、神は主イエス・キリストを通して全人類に向かって呼び掛けておられます。「神の国の完成」に向かっていまも天の父なる神様は生きて働いてくださっているのです。その完成する日とは、終わりの日、主イエスが再びこの世に来られる日なのです。その時まで神の御業は前進して行きます。その「神の国の完成」のために、神の救いの完成のためにわたしたちも神様と一緒に働くのです。喜びをもって奉仕をしていくのです。そして、それこそがわたしたちにとっての使命です。それこそがわたしたちにとっての救いの道なのです。

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