2020.3.8.
 詩編 第107篇1〜9節、ルカによる福音書 第13章22〜30節

「狭い門から入りなさい」

 主イエスは、神様の教えを伝えるために旅をしておられました。あるところで主イエスは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問をお受けになりました。ここで言われる「救い」とは何でしょうか。そのことと「狭い戸口から入る」とはいかなることなのでしょうか。これらのことを考えるためにきょうのところの全体を見てみたいと思います。

 24節に「狭い戸口から入るように努めなさい」とあります。ここで使われている「戸口」という言葉は、「戸」「ドア」のことです。そのドアは入ろうとしても入れないほどに狭いということです。そして、この「狭い戸口」は、「救い」と関係しているのです。

 そのドアは狭いために、入ろうとしても入れない人が多いのだと主イエスはおっしゃいます(24節)。入るのに苦労するのです。しかも家の主人がドアを、戸を閉めてしまってからはもういくら大きな声で「開けてくれ」と騒いでも開けてくれないのです(25節)。

これは何を意味するのでしょうか。これは譬え話です。「戸が閉められる」というのは、終末ということです。終わりの日ということです。この世は、いつか必ず終わりの日を迎えます。聖書ではその終わりの日には、天の父なる神の右に座っておられるイエス・キリストが再びこの世に来られ、わたしたち人間は、先に召された者たちすべてと共によみがえらせられる。そしてすべての者たちがキリストの前で生前の行いに応じて裁かれるとされています。終わりの日までに悔い改めない者は、救いから漏れてしまうのです。悔い改めとは、わたしたちが神のほうに顔を向き直る、出直すということです。神の教えに背き、自分中心の生き方をしてきたわたしたちが心を入れ替えて神様のほうに心を向き直るということです。しかし、その悔い改めは、「戸口が閉められて」しまってからでは遅いのです。この世の終わり、終末はいつ来るかわからないのでのんびりしてはいられないのです(ルカによる福音書12章35〜40節)。

 戸が閉まってしまう前に、悔い改めて神に向き直りなさい。しかし、いつ戸が閉まってしまうかわからないのですぐにでも悔い改めなさいと主イエスはお命じになっておられます。それでは、戸が閉められてしまった人はどうなるのでしょうか。25〜27節をご覧ください。家の主人に、戸を閉められた人は「開けてください」と頼みますが、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまいます。しかし、その人たちは「主人と一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちは広場で教えを受けたのです」と弁解のようなことを答えました(26節)。ここで言われている「家の主人」とは、神様のことがたとえられています。締め出しをくってしまった人たちは、わたしたちのことです。そのわたしたちがもし閉め出されたとしたら、どうするでしょうか。わたしたちは信仰者として、洗礼を受け、聖餐に与り、神の教えの解き明かしである説教を礼拝で聴きます。そのようにしているのになぜ閉め出されてしまうのだろうか、なぜドアから入れないのかと神様に訴えかけることでしょう。26節に「あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。」とあります。わたしたちがただ漫然と礼拝に出て説教を聴き、聖餐に与るということだけでこと足れりと考えているとしたならばそれではだめなのだということです。そういったことはキリストとの交わりを漫然と通り一遍にするだけということになり、それは「狭い戸口から入る」ということにはならないのです。神の国に入ることにはならないのです。ある注解書によりますとこの「戸口」、「ドア」とは、「エルサレムへの道」、「神の国の教えを受け入れる道」であるとされています。22節にありますように、主イエスは、「町や村を巡って教えながら、エルサレムへの道を進んでおられ」ました。エルサレムは、主イエスが十字架にかけられ死なれ、復活を果たされた町です。エルサレムへの道は、十字架への道なのです。また、ある説教者は、「この戸口、ドアとは『イエス・キリスト』のことである。十字架のことである」ということを述べています。それでは、このドアが、戸口がキリストである。十字架である。十字架への道であるとはどういうことなのでしょうか。  主イエスが十字架にかけられたのは、わたしたちの救いのためです。それは罪深いわたしたち人類の罪が赦されるためなのです。わたしたちはそのことに深く感謝しなければなりません。天の父なる神様は、わたしたちの罪が赦されるために愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。それほどまでにわたしたち人間を愛し抜かれる御方なのです。わたしたちは、そのことに深く感謝して、主イエスの弟子として主の御後に従うのです。「狭い戸口から入る」とは、キリストの召し、招きに応えて主の御後に従うことです。

 わたしたちにとっての救いとは、いまのこの世において、信仰的な決断をもって悔い改め、主イエスを信じ、主イエスの御後に従って生きることなのです。それが「狭い戸口から入る」ことなのです。「神の国に入る」ということなのです。

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