2020.3.1.
 申命記 第5章12〜15節、ルカによる福音書 第13章10〜21節

「束縛からの解放」

 主イエスが、会堂で教えられているとき、説教をなさっているときに腰の曲がった女性が会堂にいました。彼女は実に18年間もその病気にかかっていました。主イエスは彼女を呼び寄せて「あなたの病気は治った」とおっしゃって、彼女に手をおかれました。そうすると彼女は長年の病から救われたのです。「病気は治った」というところは直訳すると「病から解放された」となります。彼女は18年ものあいだ病の霊によって束縛されていたのです。彼女は医者にも何度も診てもらったことでしょうけれども18年間ものあいだ治らなかった。医者の力では無理だったのです。彼女の病は病の霊すなわち悪魔サタン・悪霊の仕業だったのです。彼女は18年間悪魔サタンの支配のもとに置かれていたのです。その支配から解放する力を主イエスはお持ちでした。

 わたしたちは、自分中心の、自己愛にとらわれています。神への愛、隣人への愛に生きることがなかなかできません。悪魔サタンはわたしたちを神への愛、隣人への愛に生きることから引き離そうとしています。悪魔サタンはわたしたちを罪の鎖で縛り、神への愛、隣人への愛に生きることを妨げているのです。わたしたちが自己中心的に、自己愛に生きてしまうのは罪の故です。エデンの園でアダムとエバが蛇の誘惑に負けて、善悪を知る木の実を食べてしまって以来、わたしたち人間は神の教えに背き、神中心から人間中心の生き方をするようになってしまいました。聖書ではそのことが罪の根本だと語っています。罪の力はわたしたちをからめ捕り、その束縛から逃れることはわたしたちの力ではできないのです。そこからの解放を主イエスはきょうのところで成し遂げてくださったのです。

 きょうの箇所では「安息日」についても語られています。主イエスはここで、安息日の本当の意味、主なる神様が十戒においてそれを定め、その日にはいかなる仕事もしてはならないとお命じになったその御心は何なのかを示そうとしておられます。その安息日の本当の意味を教えているのが本日の申命記第5章12節以下です。そこには、安息日を守ることの理由、根拠が語られています。14節に「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあるように、安息日に仕事を休むのは、自分が休むためと言うよりも、自分の下でいつも働かされている奴隷たち、そして牛やろばなどの家畜にも休みを与えるためです。彼らを愛し、慈しみ、生かすためです。そしてそのようにする根拠は、15節にありますように「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」ということです。つまり神様が、エジプトの奴隷状態から解放して下さった、その解放の恵みを覚え、感謝し、その恵みに応えて生きるために、自分の下にいる奴隷や家畜にも、安息を与え、解放の恵みを味わわせるのです。つまり安息日とは、神様によって与えられた解放を記念し、感謝し、なお捕われの中にある人々にその解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかるための日なのです。安息日に家畜を解いてやって水を飲ませるのもそのためです。ですから、アブラハムの娘、神様の民イスラエルの一員であるこの女性を18年に及ぶ苦しみから解放することは、安息日にしてもよいどころか、安息日にこそ相応しいことなのです。このように主イエスはここで、安息日が神様による解放の恵みを記念するための日であることを教えておられるのです。  このように見てくると、主イエスが「あなたはあなたを捉えている病気から、解放された」という宣言による癒しの御業と、それに続く、安息日とは解放の記念日であるという話はつながっています。そしてこれらのことは全て、私たちが、礼拝において体験していることなのです。私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配からの解放の記念日である主の日、日曜日です。この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書の御言葉とその説き明かしを通して、主イエス・キリストによって実現した私たちの解放を告げる説教を聞きます。そしてそこには、主イエスが私たち一人一人に個別に語りかけて下さっている「私があなたのために十字架にかかって死に、そして復活したのだから、あなたはあなたを捕えている罪、その他の問題から既に解放されているのだ」という宣言が響いているのです。

 18節以下にあります神の国をたとえている「からし種とパン種」とは、私たちが礼拝において与えられている、主イエスによるこの解放の宣言に関わることです。「神の国」とは何でしょうか。神の国とは、神のご支配です。それは神による救いと言い換えてもよいのです。 礼拝における主イエスによる救いの宣言は、一見するとそれはからし種のように、今はまことに小さい、あるのかないのか分からないようなものに感じられます。しかしこの種は、蒔かれたならば必ず成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るほどになるのです。またそれはパン種のようなものです。粉全体の量に比べて、つまり私たちの一週間の生活における様々な困難な問題、悩みや苦しみ、悲しみ、それらの原因となっている弱さや罪と比べると、礼拝において告げられる主イエスによる解放の宣言、罪の赦しの恵みはまことに僅かな、私たちの現実を変える力などないように思われます。けれども、このパン種が混ぜられると、やがて全体が膨れていくのです。主イエスによる解放の宣言は、私たちの歩みに、人生に、神様と隣人との関係に、やがて大きな力を、影響力を発揮し、その全体を変えていくのです。しかもそれは粉が発酵しておいしいパン生地に変えられていくような良い変化です。私たちは、主イエスの十字架と復活による解放の恵みの記念日であるこの主の日に教会に集い、神様を礼拝することによって、主イエスによる解放の宣言という恵みのパン種を練り込んでいただき、私たちの歩みの全体がそれによっておいしいパンとなっていくのを、神の国がそのようにして実現していくのを、楽しみにして生きることができるのです。

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