2020.2.23.
 ハバクク書 第3章17〜19b節、ルカによる福音書 第13章1〜9節

「悔い改めなさい」

 主イエスが群衆に話をしておられたところに何人かの人々がやってきまして、主イエスに語りかけました。その人々が告げたのは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」でした。それはガリラヤ人が、礼拝の最中にあろうことか殺されたということを意味します。ピラトは、ローマ帝国のユダヤ総督でした。当時ユダヤは、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。主イエスは、総督ピラトのもとで十字架にかけられました。主イエスはその人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。つまりこの出来事を伝えた人々は、このようなまことにひどい災難に遭ったこのガリラヤ人たちは、他の多くの人々よりも特別に罪深い者たちで、その罪に対する神様の裁きとしてこのような罰を受けたのだろう、と思っていたのです。

 この人々の思いは、悲惨な目に遭った人は神様に裁かれたのであって、自分の犯した罪の罰を受けたのだ、ということです。こういう考え方を、因果応報の教え、応報思想と言います。それは、全ての事柄は神様のご支配の下にあるという信仰と共に、物事には必ず原因があって結果があるという、ある合理的な考え方に基づいています。だから、悲惨な出来事、不幸は神様の裁きによることであり、そのような目に遭う人には、それ相応の罪があったに違いない、ということになるのです。

 ところが主イエスは、彼らのこのような思いに対して、「決してそうではない」ときっぱりと否定しておられます。そして4節において、今度は主イエスの方から、やはり最近起ったある出来事を持ち出されたのです。それは、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ、という事故のことでした。

 こういう事故も、応報思想によれば、そんな不慮の事故で死んだ人々は他の人々よりも罪深い者だったに違いない、ということになるのです。しかし主イエスは、この人々が「エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。二つの悲惨な事件や事故を取り上げて、このような悲惨な死に方をした人々は特別に罪深い者たちだったという応報思想を否定しておられるのです。

 主イエスがこの二つの出来事を通して語っておられるのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」ということです。二度繰り返されているこの御言葉こそ、主イエスがここで語ろうとしていることの中心です。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、これは私たちの思いを大きく転換させようとするお言葉です。

「悔い改める」とは、自分の素行を改めるとか、罪を犯さないように気をつける、というようなことではありません。そういうことは悔い改めの実りとして生じることであって、悔い改めそのものは、神様こそ自分の主人であることを認め、その神様としっかりと向き合うことです。それは決して簡単なことではありません。私たちは、神様と向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめています。自分の苦しみや悲しみ、嘆きのみを見つめ、そのために因果応報の教えに捕われ、苦しみの原因を見出してそれを取り除こうと必死になり、その結果神様を恨んだり、あるいは神様がいるのにこんな悲惨なことが起るなんて納得できない、とますます神様からそっぽを向いていくのです。また自分のことばかりを見つめている私たちは、自分と他の人を見比べて、自分を誇り、人を蔑んでみたり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂しています。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。私たちは、この自分のことばかりを見つめている目を、神様の方に向き変えることがなかなか出来ません。まことに頑なな、悔い改めようとしない私たちなのです。しかしそのような私たちのために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが人間となって下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。この主イエスによって、私たちが悔い改めて神様と向き合って生きる者となるための道が開かれたのです。主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦して下さる神様の恵みが示されました。

 主イエスのこの恵みに背中を押されて、私たちは悔い改めることができるのです。自分自身から目を離し、神様の方に顔を向けていくことができるのです。そこに見えてくる神様の御顔は、怒りをもって私たちを裁こうとしておられる厳しい顔ではありません。私たちの悔い改めを忍耐しつつ待っていて下さり、罪を赦し、喜んで迎え入れて下さる父としての愛の御顔です。神の忍耐は、6節から9節にあります「実のならないいちじくの木のたとえ」に示されています。私たちは苦しみや悲しみの中で、神のこの御顔を見失ってしまうようなこともありますけれども、しかしその中でも、神様に向き合って、真剣にその御心を求めていく時に、神様ご自身が私たちに御顔を示して下さり、悔い改めて神様と共に生きる者として下さるのです。そこにこそ、苦しみや悲しみの中にあっても支えられ、慰められ、平安を与えられて生きる道があるのです。

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