2020.2.16.
 エレミヤ書 8章4〜13節、ルカによる福音書 12章54〜59節

「今の時を見分けよ」

 きょうの聖書の箇所の56節に「 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」とあります。「今の時」とはどういう時のことを言うのでしょうか。マルコによる福音書1章15節に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とありますが、その「時は満ち」の「時」がそれです。主イエス・キリストの到来によって神の国が近づいたという「時」です。主イエスの到来によってすでに「神の国」は始まっているといってよいのです。「神の国」とは、神のご支配ということです。「今の時を見分ける」とは、主イエスの到来によって神の国は始まっているということをわきまえると言うことです。「神の国はもう始まっているということをあなたたちはなぜわきまえようとしないのか」と主イエスは、群衆に向かっておっしゃっています。その群衆とはわたしたちのことでもあります。それでは、今が神の国の支配の下にあるということを知ったわたしたちはどうすればよいのでしょうか。そのことが57節以下に述べられています。

 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 主イエスは、「何が正しいかを自分で判断して行動しなさい」とおっしゃいます。そのことについて主イエスは、訴えられた人の譬えの話でわたしたちに説明してくださっています。訴えられた人は、59節によると借金をしてそれをちゃんと返済しなかったので、訴えられているのです。主イエスは、その訴える人と仲直りをしなさいとおっしゃっています。このたとえは、結論的に言えば、神と仲直りしなさいという警告です。

 神様は、イエス・キリストを信じ、キリストの御後にお従いすることによって、わたしたちが救われて生きる道を与えてくださいました。主イエスの十字架によってわたしたちの罪が赦されたのですが、わたしたちはなお罪を犯し続けています。本当にどうしようもない存在ですが、そのようなわたしたちでも、主を信じ、御言葉を信じて御言葉に従って、よろめきながらでも、主の御後にお従いすることによってわたしたちが救われるという道を神様は用意してくださっているのです。

 わたしたちは、そのように神様から救いの道を用意していただき、信仰の道を歩んでいますが、神様の救いはいつ完成するのでしょうか。それは、聖書によれば、神様の右におられる主イエスが再び肉の体をもってこの世に来られる日、主の再臨の日です。そのときにそれまでにこの世を去っていた人たちはすべてよみがえらせられます。そして、それらの人が生前行っていたことに基づいて神様から裁きを受けるのです。その裁きがきょうの聖書箇所で言われている裁判官の裁きです。その裁きはどのようになされるのか。それは、閻魔大王が地獄と天国の前で「お前は悪人だからこっち、お前は善人だからあっち」という風に分けられるということではありません。キリストは、罪人と言われていた人たち、娼婦や取税人たちと親しく交じわわれ、「神の国はこのような人たちのものだ」とおっしゃいました。「正しい行いをしなければ、地獄に行くぞ」ということではないのです。恵み深い主のお裁きは、人間が下す裁きとは異なります。正しい行いをしたかどうかだけではなく、「神様と仲直りしたかどうか」ということが決め手になるのだとここで主イエスはおっしゃっているのです。それでは「神様と仲直りする」とはどういうことでしょうか。それは、主を信じ、悔い改めの心をもって主イエスの御後に従って歩んで行くということです。そこで悔い改めが求められています。「悔い改め」とは何か。それは「してしまったことを後悔する」「悔やむこと」ということではなく、もともとの意味は「方向転換する」ということです。「神のほうに顔を向き直る」ということです。罪を犯してしまっても、また神に向き直るのです。誤った生き方を改めて出直すのです。神に背き、自分を神とし、自分の欲望を神としている自分自身を神に向き直すのです。「神と仲直りする」というのはそういうことです。その仲直りは、先延ばししてはいけないと主イエスはおっしゃっているのです。「それは今なのだ」と主はおっしゃりたいのです。なぜ先延ばしにしてはいけないのでしょうか。それは終わりの日、主の再臨の日がいつ来るかはわたしたちにはわからないからです。前々回に読んだところをもう一度読みましょう。12章35節から40節をご覧ください。 わたしたちは主人の帰りを待っている僕です。僕は、主人がいつ帰って来てもいいように目を覚まして待っていなければなりません。主人がいつ帰ってくるかわからないからです。ここで言われております「主人が帰ってくるとき」とは、主イエスが再びこの世に来られる日、すなわち終末ということです。わたしたちはいつも「腰に帯を締め、ともし火をともして」待つのです。

 悪魔サタンは、いつもわたしたちの信仰をなきものにしようとしています。神の教えからわたしたちの心を離れさせようといつも狙っています。わたしたちはその誘惑につい負けてしまい罪を犯し、神に背いてしまうのです。わたしたちは、聖霊の力をたびごとに請い求めて、神に向き直って、新しい自分に変えていただけるように祈って行きたいと思います。

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