2020.2.9.
 ミカ書7章1〜7節、ルカによる福音書 第12章49〜53節

「平和か分裂か」

 主イエスは、きょうの聖書の箇所51節で「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とおっしゃっています。これはどういうことなのでしょうか。さらに主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」ともおっしゃっており、群衆に向かって厳しい言葉を発せられます。

 イザヤ書の9章6節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。」とあります。この聖句は、よくクリスマスのときに旧約の箇所として引用されるところです。「ひとりの男の子」とは、イエス・キリストのことを指すと言われています。わたしたちは、主イエスは「愛」そのものの御方であり、この世に平和をもたらす御方だと信じています。しかし、きょうの聖書の箇所は、わたしたちは大いに戸惑いを覚えさせます。

 神様は主イエスを通して、この世に「平和をもたらす御方」なのですが、しかし、安易にわたしたちに平和をポンと投げてくださるようなことはなさいません。その前に試練をお与えになる御方でもあるのです。キリストを信じて、信仰をもって歩もうとするとき未信者である他の家族との摩擦も生じてまいります。51節に「 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とあります。主イエスは、「平和ではなく分裂をもたらすために来た」とおっしゃいました。家族の間にも分裂をもたらすともおっしゃいました(52〜53節)。

 キリスト者として生きる道とは、主イエス・キリストの弟子として歩む道です(ルカによる福音書 14章25から27節)。わたしたちが主イエスの弟子として歩もうとするとき、家族の中だけでなく、この社会における付き合いにおいても困難を覚えることが起こってきます。この日本では圧倒的にキリスト教の信者が少なく、人口の1パーセントにも満たない数です。この日本でキリスト者として生きる上での困難さは少なからずあります。ときには人に「付き合いづらい奴だ」と思われることもあるでしょう。人と対立するようなことがあるかもしれません。わたしたちはこの世と安易に妥協することはできないということです。キリスト者として生きると言うことは厳しい面があります。キリストの弟子として覚悟が問われます。しかし、わたしたちはそのようにして神を信じ、主イエスの御後に従って生きることことこそがわたしたちの救いの道なのだということを心にしっかりと受け止めて行かなければなりません。ときにはわたしたちは、火のような試練に見舞われるときがあります。火で金属が精錬されるように、神から与えられる試練によって、わたしたちは練り浄められるのです。しかし、試練の後には大きな恵みがあります。主イエスが十字架の上で処刑されて死なれるまでまことに大きな、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わわれたあと、栄光に包まれて復活されたたように、わたしたちは試練を受ける前の状態よりも多くの祝福と恵みを試練のあとに受けることができるのです。  主イエスはきょうの聖書の箇所のところで、「分裂をもたらすために来た」とおっしゃいましたが、しかし分裂だけで終わらせるということはおっしゃいませんでした。 ここでエフェソの信徒への手紙2章13節から18節の御言葉に聴きましょう。

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 主イエスは、このエフェソの信徒への手紙にもありますように、分裂して対立する者たちの和解のためにご自分の命を犠牲になさったのです。わたしたちが対立し合うのは、自己中心的に生きてしまうわたしたちの罪のためです。主イエスは、そういう人間の罪が赦されるためにまことに大きな苦しみを味わわれました。その人間の罪の重さを自らに背負われて十字架への道を歩まれ、遂には十字架にかけられ死なれました。それはわたしたちの救いのためでした。それは父なる神の側で払われた大きな犠牲でした。そのような大きな犠牲を払われるほどに神はわたしたちを愛してくださっています。その神の深い愛に感謝して、わたしたちの間にたとえ分裂や対立があっても、それを乗り越えさせていただけることを確信していくことができるように祈ってまいりたいと思うのです。

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