2020.2.2.
 詩編59篇1〜18節、ルカによる福音書 第12章35〜48節

「目を覚まして待ちなさい」

 きょうの聖書箇所の前半40節まではたとえ話です。このたとえ話で共通していることは、僕(しもべ)が主人の帰って来るのを待っている、という設定です。36節によれば、この主人は婚宴に出かけています。この婚宴を、私たちが招かれる披露宴と同じに考えてしまってはなりません。当時の婚宴は何日にもわたってなされたのです。そこに入れ替わり立ち代わり多くの人々がやって来て、食べたり飲んだりしてお祝いをするのです。ですから招待された人がいつまでいるか、いつ帰るかは分かりません。待っている僕たちにしてみれば、主人の帰りは今日なのか、明日なのか分からないし、真夜中なのか、夜明けなのかも分からないのです。予測ができない、予定が立たない中で、主人の帰りを待っている、それがこの僕たちの置かれた状況なのです。主イエスはこのようなたとえによって、弟子としてのあり方、信仰者の生き方を教えておられます。

 それはどういうことなのでしょうか。40節に、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自分のことをおっしゃる言葉です。主イエスが思いがけない時に来る、それは、この時の弟子たちに対してと言うよりも、主イエスの十字架の死と復活と昇天とを経て誕生する教会の人々に対しておっしゃっていることです。ということは私たちも含めた信仰者に対して語られているお言葉です。主イエス・キリストは十字架にかけられて死なれ、三日目に復活なさいました。そして四十日にわたって弟子たちに生きておられるお姿を現し、そして弟子たちの見ている前で天に上げられました。この世を肉体をもって一人の人間として生きられた主イエス・キリストは、復活して天に昇り、いまは父なる神様のみもとにおられるのです。だから私たちは今、この地上で、主イエスをこの目で見ることはできないし、手で触れることもできないのです。しかし、その主イエスがもう一度この地上に来られる、という約束も与えられました。それが主の再臨ということです。

 再臨を待つ信仰における大事なポイントは、それがいつなのか私たちには分からない、ということです。再臨の時期は神様がお決めになることであって、人間には知ることが許されていないのです。だから、予測ができない、予定が立たない中で、主人の帰りを待っているというのが、まさに私たち信仰者の姿なのです。

 45節以下には、主人の帰りを待っているという緊張感を失ってしまう僕の姿が描かれていきます。「もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」どうでしょうか。私たちはこのような管理人にならないように気をつけなければならないのです。この管理人は主人の僕、召し使いの一人ですが、召し使いたちの上に立てられており、時間どおりに皆に食べ物を分配することを命じられています。ところがその管理人が、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる」。「下男や女中を殴る」とは、自分が主人になったかのように錯覚して、同じ僕仲間に対して威張り散らし、自分に従わせようとすることです。「食べたり飲んだり酔うようなことになる」とは、主人から皆を養うために預けられているものを、自分のものであるかのように勝手に用い、自分の欲望をかなえようとすることです。つまりここに描かれているのは、僕であることを忘れ、自分が主人として振舞う者の姿です。これはわたしたちの姿でもあるのです。

 この悲惨な現実の根本的な原因は、自分は僕であるということを見失い、主人になろうとしていることです。わたしたちが主人の帰りを待つという緊張感を失ったことです。キリストの再臨において最後の審判が行われることを畏れかしこむことがなくなり、その審判を通してこそ神の国が完成するという究極の希望を真剣に見つめなくなったことです。それは同時に、自分がいつか死んで神様の前に出るのだということをまじめに考えなくなった、ということでもあります。死について考え、備えることは、社会の高齢化に伴って盛んになってきてはいます。しかしそれは結局、この世をいかに元気に、充実して生きるか、ということの延長として、いかに安らかに、悔いを残さずに死ぬか、という話でしかありません。そこにおいて決定的に欠けているのは、死において人生の本当の主人の前に出て、僕としての働きを問われる、という緊張感です。この緊張感を失う時、私たちは、人間は、社会は堕落するのです。

 わたしたちは、緊張感を失って眠り込んでしまうことなく、目を覚まして主イエスの帰りを待つのです。その私たちに神様は喜んで神の国を与えて下さいます。先週聴きました32節には、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とありました。私たちのことを心から愛して下さっている父なる神様が、喜んで神の国を与えて下さるのです。その神様の御心が37節の後半に示されています。主人が帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、給仕をしてくれる、つまり神様ご自身が僕となって私たちに仕えて下さり、救いにあずからせて下さるのです。これは世の終わりにおける救いの予告として語られていることですが、神様は既にそのことを私たちのためにして下さいました。それが独り子イエス・キリストの十字架の死です。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、それは主人であるはずの主イエスが、命を投げだして私たちに僕として仕えて下さったということです。神様はそこまでして私たちを愛し、神の国、神様の恵みのご支配を与えようとして下さっているのです。この父なる神様の愛の御心を知らされた私たちは、その御心に信頼して、神の国をこそ求めていくのです。主イエスの再臨によって神様のご支配が完成することを信じて、その再臨を目を覚まして待っている僕として生きるのです。                                閉じる