2020.1.26.
 詩編147篇1〜20節、ルカによる福音書 第12章22〜34節

「ただ神の国を求めよ」

 きょうの聖書の箇所の小見出しには「思い悩むな」とあります。

衣食住をどうしようかという悩みです。生活の心配です。わたしたちは限られた収入をやりくりして生活しています。有り余るほどの財産を持っているなら別ですが、わたしたちは限られた収入の中で生活しています。そこには思い悩みは出てきます。「あれが足りない。これも足りない。」と必要と思われるものはたくさんあります。ここの聖書の箇所において、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」ということの意味は、グルメやファッションのことを言っているのではありません。むしろここは「命のためになにか食べるものはあるか、体のためになにか着るものはあるか」という意味です。 24節をご覧ください。

「 烏(カラス)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」カラスは、当時汚れた動物と考えられていました。そのような動物でも神様は養っていてくださる。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋や倉も持たないのに神様は養ってくださっている。ましてやあなたがたは尚更ではないかと主イエスはおっしゃっています。考えてみれば、カラスはそうやって神様によって養われ生かされています 29〜30節をご覧ください。

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」

「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」というのは、当時はイスラエル以外の国の人たち、すなわち異邦人が信じる神々は、人々の経済的な利益や安産、豊作などの願いをかなえてくれると信じられていた神々でした。それはいわゆる「御利益信仰」です。異邦人のようにあれが欲しい、これが欲しいというようにして神様に願うなということを主イエスはおっしゃっています。神様はわたしたちが神に願うより先にわたしたちの必要なものをよくご存知なのです。31節をご覧ください。

 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」主イエスは、神様に対してまず商売繁盛や家内安全などの御利益を求めるのではなく、「ただ、神の国を求めなさい」とおっしゃっています。「神の国」とはなんでしょうか。「神の国」とは、神のご支配です。「神の国を求める」とは、神がイエス・キリストにおいてこの世を支配しておられることを信じ、神の救いを求めることです。きょう共に読みました詩編147篇11節には「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」とあります。「御利益ではなく、神の救いを待ち望め、神の救いを求めなさい」ということです。神は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられ、復活させ、わたしたちの罪を赦し、わたしたちに救いの道を与えてくださいました。主イエス・キリストを信じ、主の御後に従うことによって救いの道を歩むことができるようにしてくださいました。神の国、神のご支配は、キリストにおいて実現しているのです。そのことを信じ、そのことを求めることによってまことの救いが、神の救いがわたしたちに与えられます。そうすれば食べるものや着る物その他必要なもの(おカネその他すべての必要なもの)はそれに加えて与えられる、添えて与えられるのです。

 「神の国」とは、神の救いといってもいいと思います。神の救いは、神と共に歩むこと、父なる神と、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神との愛の交わりの中に生きること、三位一体なる神との愛の交わりの中に生かされること、まことの平安の中に生かされることです。そして終わりの日、主イエス・キリストが再びこの世に来られる日に、わたしたちは復活の命と永遠の命に生きることができるのです。

32節をご覧ください。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」「小さな群れ」とは、弟子たちのことです。ルカによる福音書が書かれた当時の教会は、教会としてこの世に生まれたばかりでしたから、規模も小さく、教会に連なる人たちも不安の中にあり、様々な困難を覚えていたことでしょう。しかし、「小さな群れ」とは、2000年前のことに限定されるのではなく、まさにわたしたちのこの教会のことでもありましょう。わたしたちもまた主イエスの弟子たちや初代の教会の人たちと同じく、「神の国」を求めるならば、神様は喜んで「神の国」「神の救い」を与えてくださり、必要なものはそれに加えて与えてくださるでしょう。

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