2020.1.19.
 詩編39篇1〜14節、ルカによる福音書 第12章13〜21節

「人は何によって生きるか」

 群衆の一人が主イエスに近づいてきて、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言いました。これはなにか唐突な感じがいたしますが、当時律法学者などの宗教的指導者は、神の教えを伝えるだけではなく、民衆の日常的なもめ事などを調停したりする役目も担っていました。主イエスもそのようなことを民衆から期待されたのでしょう。この人は、兄弟と遺産相続のことでもめていたのでしょう。彼はおそらく次男か三男かであり、遺産を独占している長男に対して不満を持っていたのです。主イエスは、その人に対して「わたしはあなたがたの裁判官や調停人ではない」とおっしゃいました。このことを通して主イエスは、群衆全体に対してひとつの戒めをお与えになりました。

15節をご覧ください。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

 「人の命は財産によってどうすることもできない」と主イエスはおっしゃいます。「財産」と言う言葉は、口語訳では「持ち物」です。「財産」は、おカネや不動産などに限りません。才能や能力、健康、容姿なども含まれます。「人の命は、各人が持っているものによらない」、自分が持っているもので人生が決まるのではないということです。しかし、そう言われてもわたしたちは、おカネや才能、財産を持っていれば、豊かに幸せに暮らせると思い、それらを欲しがります。それらを獲得することが命にとってもっともよいことだと思います。それらを獲得しようと強く望みます。自分の持っているものによって自分の人生が決定づけられると考えてしまいます。主イエスは、そのことを指して「貪欲」とおっしゃっているのです。主イエスは、そのことがいかに問題なのかを皆に分からせようとなさってひとつの譬え話を語られます。16節〜21節をご覧ください。ここに登場してまいりますこの金持ちは、畑が豊作になって作物がたくさん穫れたので大きな倉を建てて、自分のたくさんの財産と共にしまっておけば何年も遊んで暮らせると思いました。しかし、神様が「お前の命は今夜、取り上げられる」とおっしゃいました。この話は、財産を持つことのむなしさを言っているのでしょうか。「清貧のすすめ」という本がかつて話題になったことがありましたが、主イエスはわたしたちに「清貧に生きよ」とおっしゃっているのでしょうか。そうではありません。主イエスは、飲んだり、食べたりすること、財産を持つこと自体を否定なさっているのではありません。「人はそれぞれ自分の環境、すなわち自分が経済的にどれだけのものを持っているかで人生が、生き方が命が決定されてしまうということではない」と主イエスはおっしゃっているのです。今夜、神によって取り去られるかもしれない命なのに、あくせく財産をため込んで喜び、安心している者たちに対して今日のルカによる福音書の20節で、主イエスは「愚かな者よ」とおっしゃっています。主から「愚か者」と呼ばれたこの金持ちの姿は、決して他人事ではありません。わたしたちはこのような金持ちのように有り余るものを持っていないかもしれませんが、わたしたちの命が今夜取り去られるかもしれないのに、自分の持っているもの、すなわちおカネや財産、能力、才能、健康、容姿などにばかり目を注いで心を乱したり、不安になったり、心配ばかりしているのではないでしょうか。「これも足りない、あれも足りない」と心配し、持っているものが多いと思われる他人をうらやんだり、妬んだりしているのです。自分の持つものにこだわっていると言う意味では、わたしたちは神の前に「愚か者」なのではないでしょうか。それでは、わたしたちは「愚か者」ではなく、神の前に「賢い者」となるにはどうすればよいのでしょうか。21節をご覧ください。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」いくら自分のために富を積んでも、自分の持っているものを増やしても、神の前に豊かにならない者は、この金持ちのように愚か者なのだと主イエスはおっしゃっているのです。ここで言われております「神の前に」という言葉は、直訳しますと「神の中に」「神に向かって」という意味です。つまり、主イエスは、わたしたちが持っているものではなくて、神様との関係に目を向けさせようとしておられるのです。

 それでは「神の前に豊かになる」とはいかなることなのでしょうか。「神に対して豊かになる」とは、神様に対してよいことを行って、善行をして、功徳を積むということではありません。それは、神を信じ、神の恵みに与って生きるということです。わたしたちの救いのために神様は愛する御子イエス・キリストを、わたしたちのために犠牲にしてくださいました。十字架にかけられました。それに勝る愛はどこにもありません。その十字架の犠牲によってわたしたちの深い罪が赦されました。神様は、わたしたちを無条件で愛してくださっています。わたしたちから一切の見返りなしに、無条件でわたしたちを赦し、受入れてくださっています。わたしたちはその深い愛を信じるときに、わたしたちはまことの平安に生きることができます。たとえわたしたちの命が今夜取り去られるとしても、神の愛を信じるなら、死んでも生きる命、永遠の命に生きる道が開かれるのです。わたしたちに命を与え、取り去る御方がわたしたちに救いを与え、まことの平安に生きる道を備えていてくださるのです。

 わたしたちが自分の持っているものに信頼して生きるのではなく、神の愛に信頼して神様にすべてをお委ねして生きるときに、自分に与えられているものを倉にため込むのではなく、隣人のために用いていくという新しい生き方が与えられるのです。そのことこそが神の前に賢い者の生き方です

 わたしたちは、自分の持っているものによって生きるのではなく、わたしたちを愛してくださり、深い愛で愛してくださっている神に信頼することによって生きるべきなのです。そのことがわたしたちの人生を決定づけるのです。そのことがわたしたちにとってのまことの救いの道なのです。

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