2020.1.12.
 詩編42篇1〜12節、ルカによる福音書 第12章8〜12節

「信仰を言い表す」

1節にありますように弟子たちは、数え切れないほどの大勢の群衆に取り囲まれた中で、衆人監視のもとで、主イエスのお話を聴いています。8節をご覧ください。

「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」

ここにあります「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」という言い方は、口語訳聖書では「人の前で受け入れる」、新改訳聖書では「人の前で認める」と訳されております。この「人々の前で自分をわたしの仲間である言い表す」という言葉は、聖書ではしばしば信仰に関わる意味で使われてきました。ローマの信徒への手紙10章9節と10節には、次のようにあります。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」 これは「信仰の告白」とも呼ばれています。「あなたこそ救い主だと信じます」と皆の前で信仰を言い表すのです。信仰というものは、心の中だけで「信じています」とつぶやくだけではだめなのです。人前で言わなければだめなのです。それが洗礼を受けるということの背景にあります。教会員の前で「イエスこそキリスト、救い主です」と口で言い表さなければなりません。「イエスという御方以外に救いはない」ということを公に言い表すのです。

9節をご覧ください。

「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」

主イエスは、十字架につけられ殺される前に、捕らえられ裁判を受けるのですが、主イエスが捕らえられてすぐに連れて行かれたのが、大祭司というユダヤ教の最高権威の職にある人の家でした。そしてそこで主イエスは、裁判を受けさせられたのです(ルカによる福音書22章54節以下)。弟子のペトロは、主イエスが大祭司による裁きを受けている時に、その中庭に入ってそっとその成り行きを伺っていました。その時、周りの人から、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。まさに、きょうの聖書の箇所の9節にありますように「人々の前でわたしを知らないと言う者」になってしまったのです。主イエスとの関係を否定する言葉を語ってしまったのです。

          そうなりますと、もう彼は主イエスの救いにあずかることはできないというのが当然の帰結になります。しかしペトロは、主イエスの復活の後、再び弟子として、信仰者として歩み出すことができました。そして、初代の教会の最大の指導者の一人となったのです。それは彼が、「主イエスを知らない」と言った罪を赦されたということを意味します。それでは、彼はどのようにして赦され、新しくされたのでしょうか。それはひとえに、復活なさった主イエスが彼に出会い、語りかけ、招いて下さったからです。主イエスは「あなたが私のことを『知らない』と言ったその罪を、私は全て背負って十字架にかかって死んだ。そのことによってあなたの罪は赦されている。あなたは私との関係を否定してしまったけれども、私は十字架の死と復活によってそのことを乗り越えて、あなたとの関係をもう一度結び直したい」とおっしゃって、彼に手を差し伸べてくださったのです。ペトロは、その主イエスの手を自分からも握り返しました。そのことによって彼は罪を赦され、主イエスを信じ従う者として新しく生き始めることができたのです。私たちが、その主の救いの御手を、自分からも手を伸ばして握り返すならば、私たちの全ての罪が赦されます。どんなに人の子の悪口を言っていたとしても、赦されるのです。10節にあります「聖霊を冒涜する」とは、この主イエスの差し伸べて下さっている御手を振り払うことです。主イエスの十字架の死による赦しを拒み、そんな救いは必要ない、自分には関係ないと宣言することです。しかし、そうではなく、わたしたちが主イエスを信じ、主に身をゆだねて行くならば、わたしたちは主イエスの恵みによって与えられる赦しにあずかることができるのです。

本日は、詩編42篇を共に読みました。この詩を歌った詩人は、人々から絶え間なく「お前の神はどこにいるのか」という嘲りを受けています。その苦しみの中で、神様のお姿を見失い、「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という嘆きの声をあげています。水を求めて谷に降りて来たけれども川は涸れていて渇きを癒すことのできない鹿のように、彼の魂は命の神を求める渇きに苦しんでいるのです。しかしそのような渇き、嘆きの中で、彼は繰り返し、自分の魂に向かって信仰の言葉を語っていきます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。私たちも、このような信仰の告白の言葉を繰り返し与えられるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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