2020.1.5. 新年礼拝
 イザヤ書 第51章12〜16節、ルカによる福音書 第12章1〜7節

「だれを恐れるべきか」

 主イエスは、弟子たちに語られました。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」この「ファリサイ派の人々のパン種」とは何でしょうか。「パン種」とは、パンをつくるときに入れるイースト菌のことです。それは練り粉に少し入れただけで粉全体を膨らませます。古代ではそれを腐敗ということを連想させるものとしてとらえていました。主イエスは、その「ファリサイ派の人々のパン種は偽善だ」とおっしゃいました。偽善が自分たちに増え広がることを警戒せよとおっしゃったのです。「偽善」とは何でしょうか。この偽善という言葉のギリシャ語のもともとの意味は「役者」「俳優」です。外側と内側が異なるのです。俳優はその役を演じているのであって、その役そのもの性格がその俳優自身の本来の人格ではありません。映画や芝居で悪役ばかりやっていると、その悪役のイメージがその俳優の人格的なものと誤解されてしまうことがあり、役者自身も困るということも起こりうるでしょう。11章39節には「杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」とあります。外側は善でいくら飾っても、内側は強欲と悪意で汚れきっていると主イエスはファリサイ派の人々を非難されたのです。そういうことが偽善的ということで主イエスは問題になさったのです。そういう偽善は、パン種のように弟子たち全員にも増え広がり、彼らの信仰を脅かす恐れがあるということに注意するように主イエスは弟子たちにおっしゃったのです。

 ところで主イエスは、引き続き弟子たちにお語りになりました。4節と5節をご覧ください。「殺すだけでなく、地獄に投げ込む権威を持っている方」とは、誰なのでしょうか。そんなことをできるのは人間ではなく、神様をおいて他にはいないでしょう。「この御方を恐れなさい」と主イエスはおっしゃいました。しかし、そういう御方は、恐ろしいだけの御方なのでしょうか。確かに神は「怒る神」「裁く神」でもあり、民の裏切りに対しては、お怒りになり、厳しい裁きを下されます。ノアの洪水やバベルの塔の建設に対する裁きもそうでした。しかし、6節をご覧ください。1羽50円くらいで売られている雀でさえ神様がお忘れになることはない。ましてや雀よりもはるかにまさっているあなたがたのことを神がよくしてくださらないはずがない。あなたがたは、髪の毛一本一本まで残らず数えられている。神に信頼しなさい。神は恐ろしいだけの御方ではない。と主イエスはおっしゃっているのです。

 天の父なる神様は、厳しく、怒る神であられますが、同時にわたしたちを愛してくださっている御方でもあります。神は、塵に過ぎないようなわたしたちのために愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられるという大きな犠牲を払ってくださったのです。神の愛はこのことに最も強くあらわされています。わたしたちはその神にもっと信頼して依り頼んでよいのです。より頼むべきです。

 旧約聖書にあるヨブ記のヨブは、自分の子供たちを悪魔サタンによって殺され、自分も重い病気にかかり、苦しみ・絶望のどん底にたたき落とされましたが、彼は神への信仰を捨てることはしませんでした。神の胸ぐらをつかむようにして、「なぜこんな目にあわなければならないのですか」と叫び、嘆きましたが、神を呪ったり、神の存在を否定したりはしませんでした。わたしたちは人生の途上において様々な試練にあいますが、いかなる困難なときにもヨブのように神にむしゃぶりつくようにして、神への信仰に生きていきたいと思います。主イエスは十字架の上で苦しみの極みを味わわれ、あえぎながら「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とおっしゃって息を引き取られました。主イエスは最後まで父なる神への信頼に生きられたのです。

 11章42節をご覧ください。主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、あなたがたは十分の一の献げものはするが、「正義の実行と神への愛」という肝心なことをおろそかにしていると批難なさいました。外側はきれいにするが内側はきれいにしない、すなわちそれが偽善だとおっしゃっているのです。「正義の実行」とは、隣人を愛することです。「神への愛」は、神を愛することです。、主イエスは、「神を愛することと隣人を愛すること」にまさる掟は他にない、それはどのようないけにえや献げ物よりも優れているとおっしゃいました(マルコによる福音書12章28〜34節)。

 わたしたちが恐れるべき御方である天の父なる神様は、わたしたちが外側ばかりきれいにするのではなく、神を愛し隣人を愛すること、「正義の実行と神への愛」に生きることを、何よりもわたしたちに求めておられるのです。その御方にどこまでも信頼して、わたしたちを取り囲む様々な不安や恐れにたじろぐことなく、希望を持って歩むことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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