2019.12.29.
 歴代誌下 第24章17〜22節、ルカによる福音書 第11章45〜54節

「神の御言葉によって生きる」

 主イエスは、先週の箇所ではファリサイ派の人たちに対して「あなたたちは不幸だ」とおっしゃいましたが、今週の箇所では律法の専門家である律法学者に対しても「あなたたちは不幸だ」とおっしゃいました。それが46節から52節です。先ず46節には、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」とあります。ここに、律法の専門家に対する主イエスの批判、あるいは怒りと言ってもよい思いが示されています。主イエスが怒っておられるのは、「あなたがたのおかげで、律法は人々の重荷となってしまった」ということです。律法は、旧約聖書において神様がイスラエルの民にお与えになった御言葉であって、その中心が「十戒」ですが、それはもともとは決して民の重荷となるようなものではなかったのです。なぜならば律法は、これを守り行う者は神様の救いを得ることができ、これを守らない者は救われずに滅びる、というような、救いを獲得する条件、あるいは救われる者と滅びる者とを区別する目印として与えられたのではなくて、主なる神様によってエジプトの奴隷状態から解放され、救われたイスラエルの民が、その恵みに感謝して、神の民として生きていく、その恵みに応えて生きる生活の指針として与えられたものだったからです。つまり律法は重荷であるどころか、神様の恵みの御言葉だったのです。ところが律法のその本来の意味はいつしか忘れられて、これを守ることによって救いを得ることができる、という条件のように受け取られるようになっていきました。  律法の専門家の登場はそのことと連動しています。律法が救いのための条件となっていくと、自分はその条件を満たしているだろうか、律法をきちんと守れているだろうか、ということが問題となります。いっしょうけんめい守っているつもりでも、自分が知らない戒めがあって、知らずにそれを破ってしまうかもしれません。だから人は、律法の隅々までよく知っていないと不安になるのです。けれども当時は、律法を記した聖書を自分で持つことができなかった時代です。自分で読んで律法の内容を確認することは出来なかったのです。それゆえに、「これは律法違反になるかならないか」「このことについて律法はどう教えているのか」を判断してくれる律法の専門家が必要となったのです。そのようにして律法の専門家が生まれ、彼らが人々の生活を律法に照らして「よい」とか「悪い」と判定し、また「律法に従うためにはこうしなければならない」と命令するようになったのです。その結果律法は、神様への感謝の生活を導く恵みの御言葉から、破ってはならないといつもビクビクしていなければならない掟となっていきました。そのような掟はもはや重荷でしかありません。

 このように本日の箇所には、神様の御言葉を、御心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みの御言葉を人々の重荷に変えてしまうことに対する主イエスの怒りが語られています。そのようなことは、神様から遣わされた預言者を殺してしまうのと同じことなのです。その怒りは直接にはファリサイ派の人々と律法の専門家たちに向けられていますが、私たちはこの主イエスの怒りを他人事として眺めていることはできないでしょう。私たちもまた、神様の御言葉を、御心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みの御言葉を重荷としてしまっているのではないでしょうか。

 私たちは、神様の恵みの御言葉を倫理道徳の教えへとねじ曲げてしまい、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しています。人に背負いきれない重荷を負わせ、自分では指一本もその重荷に触れようとしないのが私たちの姿です。

 しかし、主イエスは、私たちが自分でも背負い込み、お互いどうしの間でも負わせ合っている重荷に、指を触れるどころか、それを私たちから取り上げて、代って背負って下さったのです。そしてその重荷に押しつぶされるように、十字架の上で苦しみ、死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちは、神様の御言葉を、律法を、重荷としてしまうような間違った信仰から解放されるのです。この主イエス・キリストを信じる信仰は、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。また御言葉を守るべき掟と勘違いして、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら歩むような、つまり人間ばかりを見つめて生きるものでもありません。わたしたちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるべきなのです。そのことによってこそ、聖書に記されている神様の御言葉を恵みの御言葉として読み、聞くことができます。そして、神様の恵みの御言葉を倫理道徳の教えへとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷でしかないものへと変質させようとする、わたしたちの誰もがかなり根深く持っている間違ったとらえ方から解き放たれていくのです。そのようにしてわたしたちは、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもってそれに応答していく信仰の生活を送っていくのです。

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