2019.12.22. クリスマス礼拝
  イザヤ書 第9章1〜6節、ルカによる福音書 第2章8〜20節

「救い主がお生まれになった」

 本日はクリスマス礼拝として礼拝をお献げしております。クリスマスとは何でしょうか。国語辞典などによりますと、クリスマスとは、一般的には、イエス・キリストが誕生した日、あるいは誕生を祝う祭りとされています。クリスマスというと、クリスマスケーキをいただいたり、クリスマスプレゼントをやりとりしたり、サンタクロースが登場したりといった華やかな事柄が取り上げられますが、クリスマスはただのお祭りではありません。クリスマスという言葉のもともとの意味は、「キリストのミサ」「キリストの礼拝」です。イエス・キリストを礼拝することです。イエス・キリストを拝むことです。その意味では、いまわたしたちがキリストの礼拝をしているこの礼拝こそが本当のクリスマスなのです。

 日本でのクリスチャンの人口はわずか1%に過ぎません。人口にして約100万人です。そのような中でキリスト教の恒例行事としてよく知られているのがクリスマスですが、クリスマスの本当の意味をひとりでも多くの人たちに知ってもらいたいと思います。

 10節に「 天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。・・・」とあります。 ここで使われております「告げる」エウアンゲリゾーという言葉は、「喜ばしい知らせを告げる」という意味です。何が喜ばしいのでしょうか。11節をご覧ください。「 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ダビデの町すなわちベツレヘムでわたしたちのために救い主がお生まれになった。この方こそが、わたしたちの主であられ、救い主であられるのだ。「大きな喜び」とは、救い主がお生まれになったことなのです。

12節をご覧ください。 「 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 彼らは、天使の言葉を聞いて赤ん坊を探してベツレヘムに行きました。15節から16節をご覧ください。 「 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」

 わたしはこの箇所を何回も読んできたのですが、改めて考えさせられたことがありました。飼い葉桶に寝かされたこの赤ん坊が救い主だとなぜ羊飼いたちは知ったのでしょうか。力のない弱い、生まれたばかりの赤ん坊が救い主だとなぜ彼らはわかったのでしょうか。

 それは、天使の言葉、すなわち神がそう仰ったから、神の言葉だったからです。きらびやかな宮殿できれいな産着を着せられた赤ん坊ではなく、決してきれいではない暗い馬小屋の片隅の飼い葉桶の中で布にくるまれた赤ん坊がわたしたち人類の救い主であるということは、彼らが聞いた天使の言葉、神の言葉によって知ることができたのです。彼らはその神の言葉を信じることによってこのことを知ったのです。

     主イエスは、わたしたちの救い主としてこの世にお生まれになりました。神と等しい御方であるのもかかわらず、人となって、わたしたちと同じ肉の体を持ってこの世にお生まれになったのです。「わたしたちと同じ肉の体」とは、切れば血も出るし、痛みも感じられる、悲しみや苦しみの感覚もわたしたちと同じだということです。

 イエス・キリストの両親は、マリアとヨセフでした。ヨセフは身重のマリアを連れて、住民登録をするためにガリラヤのナザレから長い旅をしてベツレヘムにたどり着きました。それは徒歩で約三日程かかる距離です。ベツレヘムでは、多くの宿泊客が全国から集まって来たので宿が取れませんでした。彼らはやむなく馬小屋に泊まることになりました。そのところでマリアはイエスを産みました。赤ちゃんイエスは、飼い葉桶に布にくるんで寝かされました。飼い葉桶とは、干し草などの馬に食べさせる馬の餌を容れる桶でした。神の御子であられる御方がそのようなところにお生まれになったのはなぜなのでしょうか。なぜ救い主がそのようなところにお生まれになったのか。ある説教者が、「この暗い汚い馬小屋の飼い葉桶は、わたしたちの心の中である」と言いました。わたしたちの心の中は罪の汚れに染まっています。わたしたちの日々犯してしまう罪のひとつひとつを赦してくださるために、イエス・キリストご自身が十字架にかけられ、わたしたちが想像もできないほどの大きな苦しみを受けられ、死なれたのです。そして復活を果たされました。死の力を打ち破られました。そのような御方がこの地上にお生まれになったということが大きな喜びでなくてなんでしょうか。

 罪にまみれた、汚い暗い馬小屋の飼い葉桶のようなわたしたちの心の中に主イエス・キリストがきてくださることで、わたしたちは滅びの道を歩まなくて済むのです。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです(2章20節)。」と述べております。信仰とは、神を信じ、キリストを信じ、キリストの歩まれる道を、キリストの後に従って歩むことです。それがわたしたちに神様が与えくださった救いの道です。そのことの意味を深く心に留めて、神に感謝して救いの道を歩んでまいりましょう。

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