2019.12.15. アドヴェント3
  詩編 第103篇1〜22節、ルカによる福音書 第11章37〜44節

「内側の清さ」

 きょうの聖書の箇所には、「ファリサイ派」と呼ばれる人が出てきます。主イエスはその人たちのことを非難しています。ファリサイ派の人たちというのは、律法の決まりを解釈して、それを厳格に守ることによって神に喜ばれようとし、神の救いが得られると考えて実践していた人たちでした。それを民衆にも要求していた人たちでした。聖書の各所で主イエスは彼らと論争しておられます。

 38節に、主イエスを招いたファリサイ派の人が、主イエスが食事の前に身を清められなかったのを見て不審に思ったとあります。「身を清める」とは全身を洗うということではなく、手を洗うということです。手を洗うということは、こんにち当然とされているような衛生的な観点からそうするということではありません。それは宗教的な意味で言っています。宗教的に汚れたものと接触した場合(異邦人との接触など)の汚れを落とすということを意味していたのです。そのファリサイ派の人に対して主は仰いました。39節と40節をご覧ください。ファリサイ派の人たちは、自分たちの内面のことは棚に上げて、律法を形式的に守ることだけを大切にしており、そのファリサイ派の人たちの形式主義というものを主イエスは非難なさったのです。外面も大事ですが大切なのはむしろ内面なのです。42節にありますように、「あなたたちファリサイ派の人たちは、自分が所有している野菜などの十分の一を献げるという掟を守ることには熱心だが、『正義の実行と神への愛』はおろそかにしている。本来は後者のほうがはるかに重要ではないか」と主イエスは仰っているのです。ここで言われる「正義の実行」とは、隣人に対してのことであり、隣人愛に基づくこと、隣人を愛することです。「神への愛」は、神を愛すること、すなわち信仰のことです。

 マタイによる福音書22章34〜40節をご覧ください。 ここでは「愛の戒め」と呼ばれる戒めのことが語られています。きょうの聖書の箇所の「正義の実行と神への愛」とはこのことと関連しています。ファリサイ派の人たちは、手を洗う、身を清めるなどという形式的なことを守ることを最優先にして、神への愛、隣人への愛という最も大切な戒めをないがしろにしており、その彼らを主イエスは批難なさったのです。

 ところで、ここに登場いたしますファリサイ派の人たちのことをわたしたちは芝居の舞台を観る観客のような気分で観てはいないでしょうか。これは決して他人事ではありません。このファリサイ派の人たちこそわたしたちの姿でもあるのです。神の戒めを守ることはもちろん大事ですが、それがいつの間にかファリサイ派の人たちのようになってしまい、戒めを守れず、品行方正に生きられない人たちを見下すという傾向が強くなってしまっていないかということを、わたしたちは、自分自身に問わなければならないと思います。主イエスは、人々に「律法を真面目に守って、品行方正に生きよ」などとは仰いませんでした。むしろ、娼婦や取税人などの罪人と言われていた人たちに寄り添っておられた御方でした。ファリサイ派の人たちは律法の教えを形式的に守ることをとにかく大切にしました。本当はもっと大切なことがあるのにそれをないがしろにしたのです。ファリサイ派の人たちはもっぱら律法を忠実に守ること、例えば「杯や皿の外側をきれいにすること」(39節)だけに力を注いでいたのです。彼らはそのことが神の求めておられることであり、それらのことを忠実に守ることによって神の救いが得られると考えていたのです。そしてそのようにできない人たちを見下していました。わたしたちはいつのまにかこのファリサイ派の人のようになっていないかということを自己吟味しなければならないでしょう。隣人を見下し自分の立派な行いに心がとらわれてしまってギスギスした生き方をしていないか反省すべきではないでしょうか。  それではわたしたちはどうすればよいのでしょうか。42節に、行うべきことは「正義の実行と神への愛」であると主イエスは仰いました。「正義の実行と神への愛」とは、先ほども申しましたように、「隣人を愛することと神を愛すること」です。「隣人を愛する」とはどういうことでしょうか。「隣人愛」という言葉だけを見るとなにか漠然としています。それは隣人に対して優しくすることでしょうか。そうではないと思います。ある説教者が、「隣人を愛するということは隣人を赦すということだ」と言いました。しかし、これはなかなか大変なことです。問題が深刻であればあるほど簡単にできることではありません。大きな苦しみが伴います。しかし、わたしたちの罪を赦すために愛する御子を十字架にかけるという大きな犠牲を払われた神様に信頼して、人を赦せない自分を神様にお委ねしていくことで、隣人愛に生きる道が与えられて行くのです。罪深いわたしたちは、神の憐れみを求めて、悔い砕かれた心で神の救いを信じて歩んでまいりたいと思ういます。そして、そのことこそが神を愛することにもつながっていくのです。

 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51篇19節)

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