2019.12.8. アドヴェント2
  詩編 第119篇105〜112節、ルカによる福音書 第11章29〜36節

「あなたの中にある光」

33節に「ともし火」という言葉が出てきます。ともし火は、隠すものではないのです。穴蔵の中や、升の下に置く人はいません。部屋の中や何かを照らすものです。ここで言われている「ともし火」とは、29〜32節までにある「しるし」のこと、すなわち「神の御言葉の説き明かしである説教」を指しています。

34節にあります「澄んでいる」とは、まっすぐに見るということです。二心なくまっすぐに見るということです。わたしたちは、ともし火をまっすぐに見ること、説教を真っ直ぐな心の目で、心で聴くことが大切です。

同じ34節に「目が濁っている」とありますが、濁っているとは「よこしま」だと言う意味です。それは、御言葉を真っ直ぐに聴かないことです。例えば「何よりもまず神の国と神の義を求めよ」(マタイによる福音書6章33節)という御言葉を聴いても「そうは言ってもまずは生活だ。神の教えは二の次だ」と言って御言葉を真っ直ぐに受け入れないわたしたちのことを言っています。わたしたち大人は御言葉を聴いても「本音と建前」ということでごまかしてしまいます。

きょう一緒に読みます旧約聖書詩編119篇105節には「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」とあります。神の御言葉はわたしたちの光なのです。この光がなければわたしたちはたちまち道に迷ってしまいます。ヨハネによる福音書1章1〜5節をご覧ください。「言は神であった。」(1節)「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(4節)。そうです。キリストは言葉であられ、光でもあられるのです。わたしたちは、キリストがお語りになった言葉、神の言葉を聞くことによって光が与えられ、わたしたちの中に、そしてわたしたちの体全体にキリストの光が照らされます。わたしたちは、真っ直ぐな目でその光を見ることによってわたしたちの目を通してわたしたちの中にも、魂にも光が当てられるのです。まっすぐに見るということはどういうことでしょうか。先ほども申しましたが、わたしたちはともすれば、「まず神の国と神の義を求めよ」という御言葉を聴いても「そうは言ってもまずは生活だ。・・・」などと言って御言葉を真っ直ぐに受け入れなくなってしまうのです。わたしたち大人は「本音と建前」ということでごまかしてしまいます。

それでは「神の国と神の義を求めなさい」とはどういうことなのでしょうか。神の国は、神のご支配、神の義とは、神の救いのことです。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」「神のご支配があることを信じ、神の救いを求めなさい。神の救いを信じなさい」ということです。着る物や食べる物に気をとられて神の救いを、神への信仰を二の次にしているわたしたちです。もちろん、衣食住は大切です。それがなければ生きてはいけません。それらはどうでもいいと言っているのではありません。物欲に目がくらんで、神の恵みに感謝することを忘れ、信仰が二の次になっていることがないだろうかということです。このことが行き過ぎると、金銭や名誉などを神として拝んでしまう偶像崇拝の罪に陥ってしまう危険性があるのです。不思議なことですが信仰を第一とし、神を愛し、隣人を愛し、教会を信じて、神様から与えられた務めを第一にしていくと不思議と食べる物や着る物その他経済的な必要が満たされるということが起こるのです。

「何よりもまず神の国と神の義を求めよ。」神を信じ、神の教えを信じ、神の救いを信じなさい。そうすれば着る物や食べる物などは、「加えて与えられるのだ」(マタイ6章33節)と神様は約束してくださっています。おカネや健康・社会的地位や名誉などそれらのものを神として偶像礼拝する罪を犯すな。真っ直ぐに神だけを見て、神だけを信じなさいと主イエスはおっしゃっているのです。それが34節にあります「目が澄んでいる」「澄んだ目で見る」ということです。まっすぐに神の御言葉に聴いていくということです。

目が澄んでいれば、すなわち真っ直ぐに光を見るならば、神の言葉に真っ直ぐに聴くならば、神の光があなたの内側も外側も全身をも照らすのだ。神の言葉に真っ直ぐに聴くならば、神の御言葉によって、わたしたちは内も外も照らされるのです(36節)。

わたしたちのなかにはもともと光などはありません。だから光は外側から取り入れる必要があるのです。自分の中にある光とはなんでしょうか。それは信仰の光のことです。 神の言葉を真っ直ぐに聴いていつもわたしたちは自分の内側の光を、自分たちの信仰心を確かめる必要があるのです。自分たちの中に光があるのなら、その光が内側からもにじみ出てちょうど行灯(あんどん)のように暗い部屋を明るくすることができるのです。自分の信仰の光が消えてしまわないように、澄んだ目で、幼子のような心で、神の言葉を真っ直ぐに聴いて行かなければならないのです。そして、わたしたちは神の光によって内側からも外側からも照らされてこの世で歩む者になるのです(36節)。

キリストの光に照らされてわたしたちが「世の光」(マタイ5章14節)として、この世の人たちに神の救いを証する者として生きることによって、ひとりでも多くの人たちを教会へと導くことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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