2019.11.17.
   エレミヤ書 第29章10〜14節 、ルカによる福音書 第11章5〜13節

「求める者は与えられる」

 11章4節までの所には、弟子たちの求めに応えて主イエスが、祈りを教えて下さったこと、具体的な祈りの言葉であるいわゆる「主の祈り」を与えて下さったことが語られていました。祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主が、それを補足するように5節以下を語っていかれたのです。主イエスはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。このたとえを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。

 けれども私たちはここを読むと、疑問を覚えるのではないでしょうか。それは、「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」というのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めてもかなえられない、与えられないものがある、ということを私たちは経験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできないのではないか、と感じることも多いのではないでしょうか。

 この疑問への答えは、11節以下にあると思います。11、12節にこうあります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。あなたがたの中で父親である人は、自分が子供にどのようなものを与えるかを考えてみなさい、と主イエスは仰っているわけですが、これは父親だけの話ではなく、母親も含めて、親たる者は、と読むことができます。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあります。マタイによる福音書第7章の、ここと同じ教えを語っている所では、「求める者に良い物をくださる」となっていました。ルカにおいては「良い物」が「聖霊」となっているのです。天の父なる神様が私たちの祈りに答えて与えて下さる良い物とは聖霊である、とこの福音書は語っているのです。聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。そのことを語っているのが、ローマの信徒への手紙の第8章14、15節です。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。

 ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられることによってどうなるのか、が示されています。聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。天の父が求める者に与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」の中心です。個々の具体的な良い物、私たちがあれこれと祈り求めることは、この父と子という関係の中でこそ与えられていくのです。私たちにおいても、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今は与えるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことがあるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適える自動販売機と見なしてしまうことになるのです。  11章1〜13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。主の祈りは祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

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