2019.11.10.
   箴言 第30編5〜9節 、ルカによる福音書 第11章1〜4節

「日毎の糧と罪の赦し」

 本日は、ルカによる福音書第11章3、4節を中心に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

 そもそも「主の祈り」は前半と後半とに分けられます。その後半の最初は、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」です。これはその日の糧をその日に、ということに強調が置かれている、ということになります。一日一日を、神様が与えて下さる糧によって生きていく、それが主イエスを信じる信仰者の生活だ、ということです。このことに関しては、出エジプト記において、荒れ野を旅していくイスラエルの民のために神様が与えて下さった天からのパンであるマナを思い起こします。マナは毎日与えられ、その日の分だけを集めて食べるのです。明日や明後日の分まで集めて取っておいたものは、腐って食べることができませんでした。それはマナは日持ちが悪かったという話ではありません。何故なら金曜日には、翌日の安息日の分まで二日分を集めるように命じられており、金曜日に集めたものだけは翌日も食べることができたからです。このことは、神様の民は毎日、その日その日に神様から与えられる糧によって生きるのだ、ということをイスラエルの民に教えるための神様による教育でした。神の民となり、つまり信仰をもって生きるとは、その日暮らしをすることです。一日一日、その日の糧を神様から与えられて、それによって養われて生きるのです。明日や明後日の分まで蓄えておいて、それで安心することはできません。蓄えによって安心を得ようとするのは、自分が持っているもの、人間の力に頼り、それを拠り所としようとすることです。神様との関係、信仰においては、私たちは自分の持っているもの、自分の蓄えに頼ることはできません。毎日新たに神様から糧をいただいて、その日その日を生きるのです。それこそが、神様を信じて生きるということなのです。

 後半の第二の祈りは、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」です。この訳が、原文の順序に忠実な訳です。この訳によって、これが自分の罪の赦しを神様に願い求める祈りであることがはっきり分かります。私たちがいつも祈っている言葉は「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。

 私たちの罪を赦して下さるために、神様の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。神様が私たちのためにそのような損害を、苦しみを引き受けて下さったことによって、私たちは罪の赦しの恵みをいただいたのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りは、主イエス・キリストがその十字架の苦しみと死とによって私たちのために打ち立て、与えて下さった神様と私たちの関係の中を生きていくために、即ち、神様が罪人である私たちを愛して下さり、罪を赦して下さり、子として迎え入れて下さり、その恵みの中で私たちが自分の罪の赦しを信じて、神様に「父よ」と呼びかけ、神様の愛と養いに信頼して生きていくために与えられているのです。

 主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の上で死んで下さったことによって、私たちはこの祈りを祈ることができるのです。「主の祈り」と主イエスの十字架はこのように密接に結び合っています。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが「こう祈りなさい」と命じて下さったからこそ、私たちは安心して、「罪を赦してください」と祈ることができるのです。

第三の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。私たちが祈っている言葉では「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。

 誘惑とは、私たちを神様のもとから引き離し、神様を信じ、従っていく道からそらせようとするあらゆる力、誘いのことです。要するに信仰を失わせようとする力であり、神様との交わりに生きることを妨げる力です。この世には、私たちの人生には、そういう誘惑が満ちています。それは自分の名誉欲だったり、人を支配しようとする思いだったり、自分の力で糧を得て生きているかのように錯覚することだったり、神様の養い、育みを信じることなく自分でなんとかしようとする結果盗みを働いてしまうことだったり、神様が自分の罪を赦して下さることを信じることなく絶望してしまうことだったり、また神様の赦しをいただいていながら、人の罪を赦そうとしないことだったりするのです。それらの誘惑に遭わせないでください、と祈るように主イエスは教えて下さいました。

 「誘惑に遭わせず」というのは直訳すれば、「誘惑に陥って、誘惑の中にはまり込んでしまわないようにしてください、その誘惑に打ち勝つことができるようにしてください」という意味です。

 これらの誘惑は私たちがこの世を生きる限り常につきまとっています。しかしその中で、これらの誘惑に負けてしまい、主イエスが十字架の死と復活によって与えて下さった神様との新しい関係を失ってしまうことがないように守って下さいと、私たちは神様に祈るのです。

 主イエスは、わたしたちに「主の祈り」を教えて下さることによって、主イエスの父であり、私たちの父ともなって下さった神様が、これらの誘惑から私たちを守り、神様とのよい交わりの中を生き続けることができるようにして下さる、と約束して下さったのです。「主の祈り」にこそ、私たちに与えられている神様とのよい関係が描き出されており、「主の祈り」を祈りつつ生きることによってこそ、この関係の中に留まり続けることができるのです。「主の祈り」を日々祈りつつ生きることこそが、私たちの信仰なのです。そのような信仰を与えられるようにいつも祈ってまいりたいと思います。

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