2019.11.3.
   詩編 第34編1〜23節、ルカによる福音書 第11章1〜4節

「主の祈り」

 きょうの聖書の箇所は、わたしたちがいつも礼拝などで献げる大切な祈りである「主の祈り」についての話です。「主の祈り」はこのルカ福音書11章の他に、マタイによる福音書の6章にもあります。私たちが祈っている形により近いのはマタイの方です。ルカにおける主の祈りには、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」がありません。主の祈りは通常前半の三つと後半の三つの祈りに分けて考えられますが、前半の三つ目がルカにはなく、前半は二つ、後半が三つになっているのです。本日はこの前半の二つの祈りをさらに味わっていきたいと思います。後半の祈りについては次の週に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

 「御名が崇められますように」が第一の祈り求めです。私たちが祈っている言葉では、「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。私たちが用いている主の祈りの言葉は明治十年代の訳ですから、もう百三十年も前の日本語です。今この日本語の文章の意味を正確に理解している人はどれだけいるでしょうか。多くの人はこの祈りを、「私たちに御名を崇めさせてください」という意味に理解していると思います。しかしこの「崇めさせたまえ」は、「私たちに崇めさせて下さい」という意味ではなくて、神様ご自身によって御名が崇められますようにということ、すなわちあなたご自身が御名を崇めて下さい、ということを語っているのです。神様がご自分の御名を崇めるというのは少しおかしいと思うかもしれませんが、「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。ですからこれは「神様がご自分の名を聖なるものとして下さい」という祈りなのです。神様がご自分の御名を聖なるものとして下さることこそが私たちの救いです。神様がそのために私たちにして下さったのが、主イエス・キリストによる救いです。私たちは、神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚しています。その結果、神様との間のよい関係を失い、まことの父を見失っているのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。それは同時に、神様が、私たちによって汚されたご自分の名を聖なるものとして下さったということでもあるのです。このように、御名を聖なるものとして下さるのは神様であり、それが私たちのための救いの御業でもあります。神様はその御業を独り子イエス・キリストを遣わすことによって始められ、その十字架の死と復活によって決定的に押し進めて下さいました。御名を聖なるものとして下さる神様の御業は、主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的に前進したのです。私たちはこの御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神様の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。ですからこの祈りは、神様が御子イエス・キリストによって既に御名を聖なるものとして下さったその救いの恵みを感謝し、その恵みの中を歩みつつ、御名が最終的に聖なるものとされることを、つまり救いの完成を待ち望む祈りなのです。

 第二の祈りは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神様のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、このことも、神様ご自身がして下さることです。神の国は、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が来らせて下さるものなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現いたしました。神の国、つまり神様の私たちへのご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるという仕方で実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度この世に来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。ですからこの祈りは、主イエス・キリストによって実現している神様のご支配を感謝して、そのご支配に支えられて歩みつつ、そのご支配の完成を待ち望む祈りなのです。

 このように見てきますと、この前半の二つの祈りは、「父よ」という呼びかけによって主イエスが招き入れて下さっている主イエスご自身の祈りの世界、神様との間に父と子としての信頼と愛の関係を与えられて生きる者が基本的に祈り求めることは何かを示していると言うことができます。それは神様の御名が聖なるものとされ、崇められること、そして御国が、神様のご支配が実現することです。そしてそれらはいずれも、神様ご自身が、独り子イエス・キリストによって既に始め、決定的に押し進めて下さっていることであり、この世の終わりに完成すると約束して下さっていることです。主の祈りを祈る私たちは、神様のこの救いの御業とその完成の約束の中を、まことの父である神様に信頼しつつ生きるのです。

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