2019.10.20.
   詩編 第130篇1〜8節、 ルカによる福音書 第10章38〜42節

「必要なことはただ一つ」

 主イエスの一行がエルサレムへの旅を続けておられる途中である村へ入られました。マルタという女性が主イエスの一行を家に迎え入れました。マルタは、あらかじめ主イエスの一行のことを噂で聞いていたのでしょう。彼らが病人を癒やし、神の国の福音を宣べ伝えていたことを知っていたのです。別に彼女の家が宿屋を生業にしていたのではなかったと思います。彼女は、主イエスと弟子たちを受け入れたのです。彼女は前向きにアクティブに行動する女性だったのでしょう。走りながら考えるという表現がありますが、そんな感じの女性だったのでしょう。

 彼女にはマリアという妹がおりました。マリアはお姉さんのマルタとは対象的な存在としてこの物語に登場します。彼女はお姉さんと違って主イエスの足もとに座って主イエスの教え、神の国の福音に聞き入っています。その妹のことでマルタは、主イエスに向かって 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言いました。40節に「もてなし」という言葉が二度使われていますが、この言葉は「執事」を表す言葉です。そしてさらには、広く教会での奉仕を表す言葉でもあります。マルタは彼女なりに一生懸命に主に奉仕していたのです。しかし、いっこうに手伝おうとしない妹マリアを見て「なんでわたしばかりやらされているのか」と不満を持ったのです。そんなマルタに対して主イエスは、41節から42節にありますように 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃってマルタをいさめました。ここで考えたいことは、主イエスは、具体的に身体を動かして立ち回ることよりも、聞くことの方が大切だなどど単純なことをおっしゃったのではないということです。主イエスはマルタに対して、あなたはまずマリアのようにわたしのそばで神の教えに耳を傾けることができれば、心を乱すことなく、喜びをもって奉仕の業に励むことができるとおっしゃったのです。わたしたちは、「なぜわたしばかりこんなことをやらなければならないのか」と不満を持つことがあります。喜びをもって奉仕の業に励むことができなくなるときとがあります。そういうときわたしたちは、神の御言葉に聴くことがおろそかになっていないでしょうか。主が示される神の国の福音を聴くことがなければ、その奉仕の業は義務感に満たされ、苦痛になってしまいます。わたしたちの救いのため神が愛する御子を十字架にかけられ、わたしたちの罪を赦してくださったということを心に留めるとき、深い感謝の思いに満たされ、その感謝の応答として、喜びをもって神への奉仕の業に励むことができるのです。神がわたしたちの救いのためになしてくださった大いなる御業に心を留めることができるのは、神の御言葉に聴くことによってのみです。わたしたちが神の御言葉に聴くことがなければ、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、わたしたちの神である主を愛し、また、隣人を自分のように愛』することはできないのです。そもそも神の御言葉には力があるのです。創世記の始めにありますように、神は言葉によって万物を創造なさったのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」(創世記1:3)。天の父なる神様は、愛する御子を十字架にかけることによって、わたしたちの余りにも深い罪を赦してくださいました。そして、主イエス・キリストが再びこの世に来られる日、主の再臨の日には、わたしたちの目の涙をぬぐい去ってくださり、すべての苦しみや悲しみを去らせてくださり、わたしたちに復活の命が与えられ、永遠の命に生きる希望が与えられているのです。そのことを心に留め、感謝の念を持ち続けることができるのは、神の御言葉に聴き続けて行くことによってのみなのです。主の御言葉に聴き続けて、いつもそのことによって信仰を与えていただかなければ(ローマの信徒への手紙10:17)、わたしたちはすぐに暗闇の中に迷い込んでしまうのです。御言葉は、わたしたちの道を照らす光・ともし火なのです(詩編119:105)。

 それでは「御言葉に聴く」とは具体的には何を指しているのでしょうか。それはわたしたちが礼拝において御言葉の説き明かしである説教を聴くということです。

わたしたちにとって「必要なことはただ一つ」です。それは礼拝において神の言葉の説き明かしである説教に毎週聴き続けるということ、礼拝中心の生活をして行くことです。そのことによってわたしたちは神の力を与えられ困難の中にあっても希望をもって主の御後に従い行くことができるのです。主イエスの足もとに座って主の教えに耳を傾けていた妹マリアは、神の御言葉に聴くだけで終わるということはないのです。37節にありますように、彼女にも「行ってあなたも同じようにしなさい」との御言葉が与えられ、彼女は御言葉によって力づけられ、立ち上がらせられるのです。

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