2019.10.06.
  イザヤ書 第4章2〜6節 、 ルカによる福音書 10章17〜24節

「名が天に記されている」

 本日の聖書箇所の冒頭、ルカによる福音書第10章17節に、「七十二人は喜んで帰って来て」とあります。この七十二人は、10章の1節で主イエスが任命し、これから向かおうとしておられる町や村に二人ずつ先に遣わされた弟子たちです。先週の礼拝においても申しましたが、この七十二人の派遣は、主イエスを信じる信仰者の群れである教会が、つまり私たちが、主イエス・キリストのことを宣べ伝える使命を与えられてこの世に派遣されていることと重ね合わせて語られています。本日の箇所には、その七十二人が喜びつつ帰って来たとあります。彼らは何を喜んでいたのでしょうか。それは、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」ということです。20節に「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とあります。

 弟子たちは、「悪霊があなたがたに服従する」ということを体験しました。それは彼らが地上の人生において、主イエスを信じて従い、主イエスの先駆けとして派遣されて神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことです。信仰者の人生にはこのようなすばらしい体験、大いなる喜びが与えられます。わたしたちにはそういう約束が与えられているし、わたしたちはそれを信じてよいのです。けれども主イエスはここで、本当に喜ぶべきことはそういうことではない、と言っておられます。それは20節にありますように「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」ということです。信仰をもって生きる時、私たちは地上の人生において、悪霊をも服従させるようなすばらしい体験をすることができますが、しかしたとえそれができなかったとしても、私たちに与えられる本当の喜びはそれによって左右されないのです。本当の喜びは、私たちの名が天に書き記されていることにこそあるのです。名が天に記されている、それは神様がご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を天に書き記して下さっている、ということです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第4章の3節にこうあります。「そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている」。「残りの者」とは、神様が救われる者として選び、残しておいて下さった人々のことです。その人々の名が、神様の手元にある命を得る者のリストに書き記されているのです。神様のリストに書き記されているということは、もはやそれは消し去られることはない、ということです。地上の人生においてどのようなことがあっても、人生の戦いに破れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、サタンに「この人はこんな罪を犯した」と神様の前で訴えられてしまうことがあっても、神様は、「いや、この人の名は私のこのリストに書き記されている。この人は私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、主イエスの十字架と復活と昇天によって、神様が私の罪を赦して下さり、私の名を天に記して下さったことを信じることです。そこにこそ、信仰者に与えられる本当の喜びがあります。  21節以下には、主イエスが聖霊によって喜びにあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神様を賛美した言葉が記されています。21節の冒頭に「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さった主イエスが、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜び、神様をほめたたえて下さったのです。

 主イエスがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」とは、18節から20節に語られてきたこと、その中心は、あなたがたの名が天に書き記されている、ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたのです。つまり、自分の力に依り頼み、自分の力で何とかできると思っている者、しようとしている者には、名が天に記されている恵みは隠され、分からないのです。「幼子のような者」、それは、自分の無力さを知っている者、いやもっと正確に言えば、自分の力ではどうにもならない、という現実の中で途方に暮れている者です。先週の箇所の言葉を用いれば、財布や袋や履物を持って行くことではどうにもならない、狼の群れの中に送り込まれた小羊のような自分であることを知っている者です。そのような者にこそ神様は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さるのです。

)  この恵みの事実を見、この恵みの言葉を聞くことができるのは、知恵ある者でも賢い者でもありません。狼の群れの中に送り込まれた小羊のように無力な私たちが、自分ではどうすることもできない現実の中で、主イエス・キリストを信じ、主イエスに従って歩もうとする時に、主イエスご自身が私たちの目と耳を開いて、多くの人々が願いながらも見ることも聞くこともできないでいる喜びを与えて下さるのです(23〜24節)。

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