2019.9.29.
  イザヤ書 第52章7〜10節 、 ルカによる福音書 10章1〜16節

「収穫のために働く」

 1節に「七十二人」という弟子の数が出てきます。七十二という数字は、旧約聖書の創世記10章にあります民族の数と同じです。その民族は、世界にいるすべての民族を表していました。おそらく全世界に弟子たちが遣わされるということを表しています。ルカは、福音書の中でも異邦人への伝道ということを特に強調しています。イスラエルという国を越えて異邦人にまで福音が宣べ伝えられることを強調しているのです。それまで神の救いは、イスラエル人だけに与えられるという考え方が主流だったのですが、主イエスはその枠を越えて異邦人にまでその範囲を広げたのです。

主イエスは、伝道の旅の中で、福音の宣教のために弟子たちを先に遣わされました。主イエスは、彼らにまず伝道させてそのあとでお出でになりました。そして主は弟子たちにおっしゃいました。2節

 収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

ここで言われる「収穫」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、福音を宣べ伝えて福音を信じて生きる人たちを獲得することを言うのでしょう。しかし、いまのわたしたちの教会を巡る状況を見るとき、果たして「収穫は多い」と言えるのだろうかという疑問が湧いてきます。いま伝道の不振が言われ、教勢が落ちて、ほとんどの教会がそのことに悩んでいます。しかし、主はそのことは収穫の働き手が少ないからだとおっしゃっているのです。いま畑では作物が実り刈り取るばかりになっています。その実りはわたしたちの目にははっきりとはわからないのです。じつは、福音を待っている人たちは大勢いるのです。「働き手が少ない」というのは、伝道者や牧師が足りないということだと言う人もいます。確かにそういうこともあるでしょう。しかし、その意味するところはそのことだけではありません。神様のお力によって神の国の福音を待っている人が大勢起こされているのです。わたしたちはそのことを信じて刈り取るだけなのです。「働き手」が起こされるというのは、そのように、神によって福音を待っている人たちが生み出されているということを信じて、収穫のために働く人が起こされるということです。神の福音を待っている人たちが大勢いることを信じて、希望を持って働く働き手が多くいれば、収穫は多くなるのです。わたしたちもその働き手として喜びを持って働けるように祈り求めて行きたいと思うのです。

 きょうの聖書の箇所で述べられております、主イエスによって先に遣わされた弟子たちは、わたしたち自身のことをも指しています。主イエスが終わりの日に再びこの世に来られる日まで、わたしたちは主イエスの露払い・先遣隊として働く務めが与えられているのです。教会はそのような者たちの群れなのです。神の国は、主イエスがこの世に来られたことによって始まりました。神の国とは、神のご支配のことです。主イエスがこの世にお出でになったことによって、神の国、神のご支配が始まったのですが、それはまだ完成していません。神のご支配による神の救いは、主イエスが再び来られる日に完成するのです。

わたしたちは、その終わりの日を目指して福音を宣べ伝える務めを果たすことが求められています。わたしたちは神の国が来ていること、神のご支配が始まっていることを多くの人に宣べ伝えていくことが求められています。

 主イエスが再びこの世に来られる日、再臨の日には、神がわたしたちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ」り、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)世界が始まるのです。その日はいつ来るかわかりませんが、わたしたちがその時にはすでに死んでいたとしても、復活の命を与えられ、そのことを経験することができるのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と述べています。信仰はある日突然に天から降って来て、起こされるのではありません。人を通して神の教えが聖書に基づいて語られ、聞かれることによって起こされるのです。

御言葉の教えを広めることすなわち多くの人の心に信仰の種をまくことはわたしたちに与えられた神からのつとめですが、その種を育てるのはわたしたちではなく神様なのです。畑の実りは、神様がつくってくださることです。わたしたちはそのことを信じて、終わりの日まで、その収穫のために喜びをもって働ける者とされたいと思いますし、そのような働き手が多く起こされるように収穫の主である神に祈り求めて行きたいと思うのです。

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