2019.9.22.
 列王記上 第19章19〜21節 、 ルカによる福音書 9章51〜62節

「わたしに従いなさい」

 ルカによる福音書は、本日の箇所、9章51節から新しい局面に入ります。51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。ここからは、エルサレムへ向けての旅が始まります。エルサレムへの旅が始まったわけですが、主イエスと弟子たちがそれまでもっぱら活動していたガリラヤからエルサレムへ向かうとは、南に向かうということです。ガリラヤの南、ユダヤとの間にあるのがサマリアです。主イエスはこのサマリアを通って旅して行かれたのです。弟子たちは、サマリア人の村へと先に派遣されました。それが52節の後半「彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った」ということです。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」と53節にあります。これは、当時ユダヤ人とサマリア人との間にあった対立によることです。それには歴史的な背景があり、彼らはお互い激しい敵意を持って対立していました。主イエスと弟子たちの一行はサマリアの人々に歓迎されるどころか、むしろ敵意をもって迎えられたのです。そういうサマリア人の敵意に対して、弟子のヤコブとヨハネが、こちらも敵意をもってふるまおうとしたというのが54節です。彼らは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。しかし主イエスは、「そんなことを言ってはいけない」と彼らをたしなめたのです。

 ところで、主イエスの弟子となって主イエスに従うとはどのように歩むことなのか、ということが57節以下に語られています。ここには、主イエスに従って行こうとした三人の人々に対する主のお言葉が並べられています。この57節以下に語られているのは大変厳しいことです。私たちはこの厳しさを割り引かずにしっかりと受け止める必要があると思います。

 しかし、だからと言って、この御言葉を、父の葬式を出している暇があったら伝道せよ、とか、家族のことなどはほうっておいて主イエスに従え、という律法、戒律が与えられたように理解することは間違っています。私たちがここから読み取るべきことはむしろ、信仰者として主イエスに従って生きる時に、私たちは主イエスと共に旅する者となるのだ、ということです。信仰とは旅立つことです。旅立つとは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」という言葉に象徴されている自分にとっての安住の地、安心できる家を離れることです。父を葬るとか、家族にいとまごいをすることに象徴されている親や家族との関係から出て、一人の人間として主イエスと共に生きる者となることです。言い換えれば、信仰者になるとは、私たちが生まれつき属している集団、そこに連なっていれば安心でき、連帯感が得られるような群れ、その中で自然に共有されている考えや感覚、常識などを離れて旅立ち、主イエス・キリストと共に生きることにおいて与えられる新しい意識、感覚、思いや志に生きていくことなのです。

 主イエスに従って旅立つことによって、私たちはこのように新しい思いと志を与えられます。そしてその信仰の旅路において、神様の大きな恵みを体験していくのです。主イエスご自身は確かに、枕する所もない歩みを、十字架の死に至るまで歩み通して下さいました。しかし主イエスのこの歩みによって私たちには、救い主イエス・キリストによって実現した神様の恵みによって罪を赦され、支えられ、守られ、育まれるまことの幸いな歩みが与えられているのです。

 そして、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という御言葉も、その恵みの中で読むことができます。父を葬る、それは愛する身近な者の死に直面するということです。死の力が、私たちから愛する者を奪い去っていくのです。そして私たち自身もいずれ、その死の力に捕えられ、この地上での命を失っていくのです。葬り、葬儀は、死の力の支配に直面させられる時です。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉は、いろいろな意味に読むことができますが、それは要するに、葬られる者も葬る者も共に死の力の支配の下に置かれている中で行なわれる葬り、ということでしょう。それに対して主イエスは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃったのです。神の国とは、神様のご支配ということです。もはや私たちを支配しているのは死の力ではない、十字架にかかって死なれた主イエスを復活させて下さった神様が、死の力を打ち破り、今や私たちを、この世界を、支配して下さっている、それが神の国の福音であり、主イエスに従うとは、この神の国を言い広めることなのです。この神の国の福音が言い広められ、告げ知らされる所でこそ、私たちは、愛する者の、そして自分自身の死と向き合うことができるのです。単なる気休めでない、本当に慰めと希望のある葬りはそこでこそなされ得るのです。ですから主イエスのこのお言葉は、親の葬式を出している暇があったら伝道せよ、ということではありません。主イエスに従って旅立ち、神の国の福音に生き、それを宣べ伝えていく所でこそ、本当の慰めと希望が告げられ、死の悲しみや恐れに打ち勝つような葬りがなされる、ということをこの御言葉は告げているのです。                      閉じる