2019.9.15.
 イザヤ書 43章16〜20節 、 ルカによる福音書 9章46〜50節

「主イエスの名のために」

 ルカによる福音書9章46節以下には、主イエスに従っている弟子たちの間に起った一つの論争についての話が語られています。

 弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起ったのです。誰が一番偉いか、というのは単純な、子供じみた言い方ですが、要するに、誰が重んじられるべきか、誰の言うことが尊重され、聞かれるべきか、という争いが弟子たちの間に起ったのです。

   主イエスは、弟子たちの前で、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせました。つまり主イエスは、この問題について弟子たちを教えるために、一人の子供を言わば教材として用いられたのです。ここで、「子供」というのが当時の人々の間でどのような存在だったかを確認しておく必要があります。そうでないと、主イエスが一人の子供を弟子たちの前に立たせたことの意図を見誤ってしまうからです。私たちの感覚においては、子供というのは、かわいいもの、純真で無垢なもの、守ってやるべきか弱いもの、といったイメージがあります。つまり積極的な、価値ある存在としての子供という認識があるのです。しかし、本日の箇所は、それと同じ感覚で読んでいると分からなくなります。ここでは「一人の子供」は、価値ある大切な存在としてではなくて、無価値な、一人の人間として取るに足りない、軽んじられる存在として見つめられているのです。それは主イエスが子供のことをそう思っていたということではなくて、当時の社会の一般的な感覚がそうだったのです。これは女性もそうでしたが、子供は、物の数に入らない、無価値な存在とみなされていたのです。主イエスはそういうひとりの子供をそばに立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです。つまり主イエスは子供を教材として用いることによって、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることをお求めになったのです。

 さてしかし、主イエスのこの教えにおいてもう一つ注目しておかなければならない大事な言葉があります。それは、「わたしの名のために」という言葉です。主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は」と言われたのであって、一般論として「一人の子供を受け入れる者は」と言われたのではないのです。一人の子供を、つまり小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるのは「主イエスの名のため」なのです。つまりそこで語られているのは、私たちの倫理観、道徳観の問題ではないのです。具体的に言えば、「どんな人をも排除しない寛容な精神を持ちましょう」というような話ではないのです。見つめるべきは、主イエスがどのような方であり、どのように歩まれたか、です。その主イエスに従っていくところに、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れる歩みが生まれるのです。

 この点において、本日のこの話が、9月1日の主日に読みました44節の、主イエスの第二回受難予告にすぐ続いて語られていることに意味があります。このつながりはルカが下敷きにしたマルコによる福音書から受け継いだものですが、読み比べれば分かるように、ルカはマルコよりもより直接にこの話を受難予告と結びつけています。つまり、「わたしの名のために」と言っておられる主イエスとは、「人々の手に引き渡されようとしている」主イエスなのだということを強調しているのです。人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところに、主イエスの名のために小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れるという歩みが与えられるのです。なぜならば、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちは、私たちに命を与え、導いて下さっている神様に背き逆らい、その御名を汚している者です。私たちは、弱く無価値な、受け入れるに足りない者として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者なのです。しかし神様は、そのような私たちを愛して下さり、大切に思って下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために独り子のイエス様を遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスによる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのが信仰者です。その信仰者の歩みは、主イエスの御名のために小さな、軽んじられ、軽蔑されている人を受け入れ、仲間として共に歩み、大切にするという歩みであるはずなのです。  主イエスにお従いする者、すなわち主の弟子とは、つまり信仰者とは、十字架の苦しみと死を経て復活へと至る主イエスに従い、ついて行く者なのです。第一回受難予告を受けて語られた「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従うことの具体的な現れが、小さな、軽んじられ、軽蔑され、物の数に入れられていないような人を受け入れて共に歩むことであると言えるでしょう。

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