2019.9.1.
 詩編119篇129〜136節 、 ルカによる福音書 9章37〜45節

「隠された言葉」

主イエスと三人の弟子たちは、主イエスの変貌の出来事があった翌日に山を降りてきました。そこに一人の男がやってきて、一人息子を助けてくださるように主イエスに懇願いたします。この息子の症状は、今の病名で言えば「てんかん」だったのではないかと言われております。息子本人ともどもこの父親も長い間苦しんでいたのです。この病気の原因は、当時悪霊によることだと考えられておりました。この父親は、この息子から悪霊を追い出してくださるように、強く求めたのです。主イエスは、彼の願いを聞き入れられました。彼の息子から悪霊を追い出して、この息子を救ってくださったのです。

人々が、主イエスがこの息子から悪霊を追い出し、この息子を救われた出来事を目の当たりにし、大いに驚いて、神の偉大さに心を打たれたと43節にあります。主イエスの御業が神のなせる業であること、神の力によってなされたということを人々は知ったのです。しかし、そのとき、主イエスは弟子たちに次のように仰いました。44節「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」ここにあります「人の子は引き渡される」とはどういうことでしょうか。この「人の子」とは、主イエスご自身のことです。主イエスは、しばしばご自身のことを表されるときに「人の子」という呼び方を使われました。18章の31節以下にありますように、主イエスが、異邦人の手に、ローマ人の手に引き渡されること、すなわち逮捕され、むち打たれ十字架につけられるために引き渡されることを意味しています。これは、「受難予告」と呼ばれ、ルカによる福音書に三回出てまいります。きょうの箇所は、そのうちの二回目にあたります。

この主のお言葉は、きょうの聖書箇所の前のところで、主イエスが山の上で栄光に包まれた様子を見たばかりの三人の弟子たちにとっては特に理解に苦しむ主のお言葉だったことでしょう。神の力の偉大さを目の前で見せられた弟子たちにとって、主イエスが異邦人の手に引き渡されると言うことの意味が、彼らには分からなかったのです。彼らにとっては、主のこのお言葉は謎でした。それは、彼らには隠されていたと45節にあります。なぜ隠されていたのでしょうか。神の力を持つ御方が異邦人であるローマ人の手に引き渡され、むち打たれ、侮辱され、十字架の上で苦しみの極みを味わわれてから殺されるということの意味は、主イエスが復活されるまで弟子たちに隠されていたのです。そのことの意味は、人間には予めいくら説明されてもわからないことでした。主イエス・キリストが、なぜ苦しみを受けて殺されなければならないのか。主イエスが十字架で死なれ、復活されてのちに主イエスのほうから、その意味が示されるのでなければ、その意味がわからなかったのです。「啓示」という神学の専門用語があります。これは、神が救いのための大切なことを神のほうから開き示してくださるという意味です。主イエスが苦しみを受けて殺されるということの意味は、あまりにも深く、深遠な、重要なことなので、神のほうから最もふさわしいときに最もふさわしい仕方で示される必要があったのです。

主イエスが十字架につけられて復活なさったあと、主イエスは二人の弟子たちの前に姿を現されるのですが、彼らの目は塞がれていて、それが主イエスご自身であることに気がつかないでいたという話が、ルカによる福音書の終わりに近いところに記されています。この二人の弟子は、主イエスが生前、きょうのところにもありますように受難の予告をなさっていたにもかかわらず、その言葉の意味が主が死なれた後でもわからなかったのです。そして、そのような弟子たちに対して、24章の25節から26節にありますように、そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と嘆かれ、27節にありますように、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。主イエスが異邦人の手に渡され、むち打たれ、十字架上で殺されるということの意味を主イエスが聖書を解き明かしてくださることによって、わかるようにしてくださったのです。

わたしたちは神様とはどのような御方なのか、主イエス・キリストとはどのような御方なのか、神様がわたしたちにお与えくださる救いとはどういうことなのかということは、わたしたち自身がいくら頭の中で考えてもわかりません。それは神様のほうからわたしたちに開き示されるのでなければわからないのです。それではどうすればそのことがわかるのでしょうか。それは神の御言葉に聴き、聖霊の導きによらなければかなわないのです。教会の礼拝において神を崇め、神を拝み、神の御言葉に聴いて、聖霊の力が注がれなければ実現しないのです。わたしたちは、礼拝においてそのことを祈り求め、心から神を崇め、讃美し、神のご栄光をあらわして行けるように祈ってまいりたいと思うのです。

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