2019.8.18.
イザヤ書 42章1〜4節 、 ルカによる福音書 9章28〜36節

「栄光に輝くイエス」

 あるとき主イエスは弟子たちを前にして、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日目に復活することになっているとご自身の苦難を予告なさいました。それから八日が経った日に主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れて山に登られました。そしてそこで、主イエスのお姿が変わったのです。29節に「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。ペトロたちは、栄光に輝く主イエスのお姿を見、モーセとエリヤが主イエスと語り合っているのを見ました。モーセとエリヤが話を終えて離れ去って行こうとするのを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。そのことについては、「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますが、しかし彼の思いは明らかです。ペトロは、栄光に輝く主イエスのお姿と、モーセとエリヤが主イエスと共にいる、というこの素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと思ったのです。主イエスとモーセとエリヤのために小屋を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからもここに来ることによってこの素晴らしい栄光の姿を見ることができる。他の弟子たちも連れて来て見せることができる。さらに多くの人々に栄光に輝く主イエスのお姿を見せることができる。小屋があればそれができるというなにかピントがずれたような話ですけれども、ペトロの思いはそういうことでした。彼は「自分でも何を言っているのか、わからなかった」のです。

 34節には、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。栄光に輝く三人の姿を、雲が覆い隠して行ったのです。雲というものは、旧約聖書において、神様が人間にご自身を現し、出会おうとなさる時に現れるものです。それは神様が出会って下さることの印であると同時に、その神様のお姿を人間の目からは隠す働きもしています。

 しかし、栄光のお姿が雲に包まれていく中で、神様の声が響きました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神様はおっしゃったのです。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」と36節にあります。つまり「これ」というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け」と神様はおっしゃったのです。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。18節以下にあります主イエスの問いに答えてペトロが告白したあの信仰を、神様ご自身がその通りだと肯定し、裏付けて下さったのです。

 そして同時にここには、その主イエスの栄光は、どこかに行けば見ることができるようなものではない、それを人間の営みの中に位置づけ、人間の手の中に確保するようなことはできない、ということが示されています。この栄光に触れるために神様が私たちに求めておられるのは、「これに聞け」ということです。神様の独り子であられ、神様が選びお遣わしになった救い主であられる主イエス・キリストに聞くこと、その御言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、栄光に輝く主イエスの本当のお姿と出会うことができるのです。主イエスは多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活なさった御方です。その主イエスに聞き従う時に私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従って行くことになります。主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかしこの主イエスに聞き従って行くことの中でこそ私たちは、きょう一緒に読みましたイザヤ書42章2節から3節にありますように「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」けれども「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、弱く罪深い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神様の民として新しく生かして下さるまことの救い主と出会い、その御方のもとに生きることができるのです。そしてこの信仰の歩みの彼方には、私たちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。山上の変貌において三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝くお姿は、その約束が確かであることを証しているのです。

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