2019.8.11.
イザヤ書 33章1〜6節 、 ルカによる福音書 9章18〜27節

「神の救いの道」

   きょうの聖書の箇所の最初に「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」とあります。そのとき、主イエスは、弟子たちに質問なさいました。18節後半から19節

そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

 これらの答えは、7節以下にありました領主ヘロデの質問に対する答えとほぼ同じです。群衆は、主イエスが立派な預言者のひとりであるとしか認識できなかったのです。それをお聞きになって主イエスは弟子たちに向かって同じ質問をなさいました。20節

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 その主のご質問に対し、弟子を代表してペトロが答えました。「神からのメシアです。」 このところは直訳しますと「神のキリストです」となります。口語訳聖書でも「神のキリストです」と訳されていました。「キリスト」は、「油注がれた者」「救い主」の意味です。わたしたちが「イエス・キリスト」と言うとき「イエスは、キリスト、救い主です」と信仰の告白をしているということになるのです。19節にもありますように、主イエスが生きておられた当時、主イエスのことを大衆は、立派な預言者のひとりとしてしか認識していなかったのです。その中にあって、ペトロは、イエスという御方が「神のキリスト」「神の救い主」だと宣言したのです。告白したのです。その後で主イエスはこのことを誰にも話さないように戒められ、さらに次のようにおっしゃいました。22節をご覧ください。

次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」  「人の子」とは、主イエスご自身のことです。主イエスはよくご自身のことを「人の子」と呼ばれました。主イエスが近いうちに、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺されるということ、そして三日目によみがえられるということを予告なさったのです。これは、主イエスの御受難の予告です。主ご自身が大きな苦しみを受けて、排斥されて殺され、復活するという主イエスの予告の言葉を聞いて弟子たちは驚きました。その弟子たちに対して主イエスはさらに、言葉を続けておっしゃいました。23節

 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

主イエスは、弟子たちに決断を迫られました。「あなたたちはわたしについてきたいのか、そうではないのか」と主イエスは、決断を迫られたのです。彼らは弟子であるからには、主イエスに従いたいと思うはずです。主イエスの弟子であるわたしたちも主イエスに度ごとに決断を迫られていると言ってよいでしょう。主イエスを信じること、神様を信じること、信仰を持って生きるとはそういうことです。主は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子たちにお命じになりました。ここで「自分を捨てる」こと、「日々、自分の十字架を負う」こと、主に「従うこと」は、いずれも同じ事が言われていると言ってよいでしょう。「主にお従いする」とはどういうことなのでしょうか。それは主イエスが教えてくださった教えにお従いすることです。わたしたちにとって聖書に記された主の教えに従うことが、すなわち「日々、自分の十字架を背負う」ことなのです。「十字架を背負う」というのは、主がさせられたように処刑場までの道のりを十字架を背負い、主イエスのために殉教すると言うことではありません。弱いわたしたちにはそんなことはできません。それは「日々、自分の十字架を背負って」と主イエスがおっしゃっていることからもわかります。わたしたちが日々自分の十字架を背負って行くこと、主イエスの教えに従って、主の教えを守って日々生きていくことそのことが、主イエスの弟子としてのわたしたちにとって、主イエスがお求めになっておられることなのです。それでは、そのことはわたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。24節から25節をご覧ください。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

「わたしのために命を失う者」とは、文字通り命を捨てるということではなく、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、主にお従いすること」を言うのです。そうすれば、自分の「命を救う」ことになる。主の復活の命に与って、新しい命に生きることができるのです。主イエスが十字架で死んでくださったことによって、わたしたちは罪が赦され、主を信じるわたしたちに、復活の命、永遠の命に生きる希望が与えられています。その恵みの中にあって、わたしたちは、罪に縛られていた古い自分を捨てて、毎週の礼拝ごとに新しい命に生きる道が与えられます。それが神の救いの道なのです。わたしたちは、「主イエスこそ神からのメシアです」との信仰を喜びをもって言い表し、主にお従いすることによって、神の救いの道を歩めるように祈り求めてまいりたいと思うのであります。

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