2019.7.28.
エレミヤ書  1章4〜10節 、 ルカによる福音書9章1〜6節

「十二弟子の派遣」

  主イエスは、そのご生涯においてそのほとんどを伝道の旅で過ごされました。主イエスは、伝道の御業をなさるために弟子をお選びになって各地に遣わされました。あるとき主イエスは、弟子たちを伝道の旅にお遣わしになるにあたり、次のように言われました。9章の3節をご覧ください。

次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。

 これらのことは、かなり厳しいご命令です。「旅にはなにも持っていってはならない」。これは托鉢修行のことを言っているのでしょうか。主イエスは「いついかなるときにもいつも何も持たないで生きろ」と仰っているのでしょうか。そうではなくて、主は「伝道においては自分が前もって持っている物に頼るな」と仰っているのです。神の恵みに信頼して歩めと仰っています。神様は、わたしたちを恵みによって養っていてくださっています。イスラエルの民が奴隷の国エジプトの国から解放され、約束の土地への旅の途中で、食べるものや飲み水に困ったときに、神様はマナを天から降らせたり、ウズラの大群を送ったり、岩から水を湧き出させてくださってイスラエルの民を救ってくださったのです。弟子たちは、「神の国の福音」を伝えるためにこれから民衆の中へ送り出そうとされています。「神の国」とは、神のご支配のことです。 神のご支配は、主イエスがこの世にお出でになったことによって始まっているのです。「すでに神の国、神のご支配が始まっているということを信じて、神を信じて歩みなさい」ということをあらゆる人々に宣べ伝えるために主イエスは十二弟子を各地にお遣わしになりました。

 彼らには、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」と1節にあります。そのことが彼らにとって大きな力となりました。神の力にではなく、自分が持っているものに頼るならば、「神に信頼して神の国、神のご支配に生きよ」ということに対する民衆の信頼が得られないことになってしまいます。弟子たち自身が、自分の持っているものに信頼しているならば、弟子たち自身が「神の救いを信頼していないことになる」と民衆に受け取られることになってしまいます。十二弟子が宣べ伝えていることに説得力がなくなってしまいます。ルカによる福音書12章29節から32節をご覧ください。

 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。 そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

 「神の国」とは、先ほど「神のご支配」のことであると申し上げました。「神の国」「神のご支配」を求めるならば、食べるものや飲むもの、着るものなどはこれらに加えて与えられるということです。わたしたちは、おカネや財産など目に見える物に目を奪われて、まずそれらの必要が満たされることを求めます。人間は「霞を食って」生きるわけにはいきませんから、当然のように思えるのですが、それでもあえて「ただ、神の国を求めなさい」と主イエスがわたしたちにお命じになるのは、「神への信頼」ということを第一にしなさいということなのです。わたしたちの必要を神様は、よくご存知なのです。31節にありますように、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」ということなのです。「神の国」「神のご支配」を求めるならば、食べるものや飲むものは、「神の国」に加えて与えられると主イエスは約束してくださっています。それが「神の国の福音」ということです。そのことを宣べ伝える役目を担う弟子たちが、自分の持っているものだけに頼ろうとするならば、その「神の国の福音」に対する民衆の信頼が損なわれてしまう結果にもなりかねないので(「言っていることとやっていることが違う」ということになってしまうので)、主イエスは「伝道の旅には何も持っていってはならない」と仰ったのです。

 わたしたちは伝道において、自分の持っている物や自分の力でなんとかしようとすると、途中で挫折してしまいます。目に見える目先の報いに一喜一憂することなく、主が与えてくださる力により頼んで忍耐強く歩んでまいりますならば、わたしたちの思いを遥かに超えた神の御心が実現して行くのです。

                 閉じる